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人への思いやりって
習慣として体得できているかどうか
という部分って大きいと思うのです

以前フェアプレイについて書いている内田樹さんのブログを読みました。
テニスの試合のとき、対戦相手が転んでしまった場合に
打とうと思っていたスマッシュをとっさの判断でやめることができるかどうか
一瞬の判断、考える時間がない場合だからこそ、その人がフェアプレイの精神を
体得でてきるかどうかがとてもよくわかるというものです

思いやりも同じだと思います。
「そのときになったらできる」「やろうとおもえばできる」と思っている人は多いですが
日常的にそれをやっていないひとは
実際には肝心なときに他人を思いやれることができません。

身体で覚えている、というのは大事です
それは日常的に何度も何度も繰り返し、それをやっているという事が意識にないくらい
習慣にするということです

つまり何がいいたいかというと

とりあえず、トイレットペーパーが無くなったら次の人のために新しいものを取り替えましょうね

あたしがもし人事の面接官なら、トイレットペーパーを取り替えない人は採用しません。


前そういえば面接時に「落ちているごみを拾うかどうか」という実験をしていた企業もありますが
見ていないところに結構皆が目を向けているということはあるような気がします

某大企業で成功したある女性の対談を聞いたことがあります。
上司が寝坊して遅刻したときに「寝坊した」と正直に言えるかどうかは重要です。
もし何か理由をつけて遅刻の言い訳をしても部下には全てお見通しです。
そういう上司に部下はついていきません。

なるほどなって思ったのを覚えています。

そういえばあたしも一度だけ大寝坊したことがありましたが、さすがに正直に寝坊したと伝えて大謝りしました。
どんな言い訳を言っても「じゃぁどうして電話一本できなかったのか?」の質問に対抗できないと判断したからですはい。




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名前は美緒と呼んでいた。本名はもちろん別にあったが、本名を知った後でも美緒と呼んでいた。
あたしたちは、ここの世界でしか通用しないハンドルネームでお互いを呼び合っていた。ここにいる全てのひとたちがそうやっているように。
美緒と知り合ったのはもうずいぶん前だった。おそらく7年とか、8年とか、そういう長いつきあいだった。たった7、8年、と思う人もいるかもしれない。だけど、ハンドルネームを呼び合う関係で、そんなに長く同じ人と関わりあい続ける相手なんて、実際にはそんなにいない。
実際に会ったことも、電話で話したこともない。毎日関わっていた時期もあったし、そうじゃない時期のほうが圧倒的に長かった。最後のほうは半年に一回程度、ラインやスカイプチャットで声がかかってくる程度の付き合いだった。声をかけてくるのは、ほとんど美緒の方からだった。
美緒が声をかけてきてくれなかったら、あっさりあたしたちの縁は切れていた。
それくらい細くて、危うい関係性だった。

ともだちって、いえるのかな。年賀状だけの関係で友達だって呼べている学生時代の同級生もいるのだから、「ともだち」と呼んでもいいのかもしれない。
2月21日に、久しぶりに美緒から声がかかった。最近あたしがLINEをはじめたので、そこから声をかけてきた。話の内容はたわいもないものだった。おいしいチーズケーキをみつけたとか、そんな感じだった。あたしはゲーム中だったので、2,3言簡単に返信をしただけだった。

そして、その5日後、美緒は帰らぬ人となった。

美緒のお姉さんという人から、美緒のLINEで声がかかった。最近のLINEの履歴から声をかけてくれたんだと思った。
「妹は亡くなりました。今夜が通夜になります」

理由を聞いた。だって数日前は元気そうにチーズケーキの話をしていたのだ。なんらかの事故に巻き込まれたのだと思った。
「乳がんでした。そうとうしんどかったと思います」とお姉さんと名乗る人は言った。

親友と呼べるほどの関係でもなかった。ほんとうに忘れた頃に時々、声をかけてくる程度の友達だった。でも、そういう関係でも7年以上続いていたのだ。しばらく実感は沸かなかった。
だってあたしたちは”会ったことさえない”のだった。美緒はあたしにはよくしてくれたと思う。
頼んだわけでもないのに、あたしの趣味を聞いてくれて、趣味にあいそうな手作りストラップや指輪を送ってくれたこともあった。

cvBKY.jpg
(美緒から届いたストラップ画像)

突然実感が沸いたのは、そのことを共通の友人Bに話した事からだった。

美緒が死んで20日ほど経ったころ、Bからスカイプチャットで声がかかった。
Bも、時々思い出したように声をかけてくる「ともだち」の一人だった。
美緒と同時期に絡んでいたこともある共通の友人でもあった。そして、あたしと同じように美緒から時々声がかかってくる友人の一人だった。美緒が亡くなったことを伝えると、驚いている様子だった。

死者の思い出を共通の知人同士で語り合うために、葬儀や通夜や法事といった儀式があるのだとしたら、あの夜はまさにそんな感じだった。
あたしたちは美緒の葬式もお通夜も行けなかったけど、同じ時期におなじものを聞いて、笑ったり喧嘩したりしながらある同じ時間を過ごしていた者同士だった。

「美緒が●●を泣かしたことあったなぁ」
「美緒はオンナノコしてる子がダメだったからね」
「むかつくんだろうねw」
「思ったこと、ずけずけ言っちゃうとこもあったけど、正直者だったよね」
「俺、自分が余命短いって時に普通の会話できるかな。自信ないな」
「そういうの、見せないでいられるのって、強さだよね」
「美緒 えらかったなぁ」
「えらいなぁ・・・」
「最後に声かかったとき、俺美緒に言われたんだよね。●●って私のこと全然好きじゃないよねってw」
「かまってちゃんか!」

「・・・もう 美緒から声かかること、ないんだな」

Bがそう言ったとき、涙がこぼれた。美緒のために泣けるほど、あたしは美緒を大事にはしてこなかったのに。


そのときの感情を説明するのは難しい。喪失感なのか後悔なのか悔しさなのか、その全てでもあるような気がするし、全部違うような気もする。

「こはるは、声かけて来ないよなぁ」
「・・・そうやなぁ・・・・」

つながり続けること。それをやってくれたから、あたしは美緒の死を知ることができた。
話しかける理由がなければ声をかけることもできなかったあたしにはできなかったこと。
とくになにもなくても声をかけたり、元気?とか最近どう?とかそれだけでもいい。
そういうことを面倒がらずにやれること。それってすごいことなんだなって思った。

「今度はあたしから声かけるよ」
とあたしはBに約束した。

半年後くらいには。 ・・・たぶん。


かかわってきたすべてのひとたちが幸せであってくれたらいいと思う。
普段声かけてなくても、ツイッターのTMで幸せそうなら、それでいい。
ほんとうに、そう思ってるんです。

家族がいてもひとりぼっちのひとはいるし、誰もいない部屋で一人PCに向かっている人でもひとりぼっちではないひともいる。

半年後でも3年後でも、声がかかれば、昨日あった友人のように普通に話せる。
そういう人たちがまだまだここにはたくさんいるのだ。






むかしむかし偉い人が言いました。


正しいことを言う時、つい相手を見下した発言になってしまいます。
正しい言葉を上から落とすと、相手の顔に激突してしまいます。
そっと正しいことは相手に手渡さなければ
かえって傷つけてしまうことになるのです。



間違っていないと思っている時が一番危険です。

ヒラリー・クリントンは討論会でトランプに、正しいことを言って、全て勝ちました。

そして、選挙の結果が正しいことをいう事の難しさを物語っています。

作戦でもいい

ただの 一度でもいい

ヒラリーが

トランプの暴言の前に、泣いていたら

あるいは

悲しく微笑んで 黙りこんでいたら

何かおおきく印象が変わった可能性があります



時々人は 間違える人が好きなのです





武田鉄矢 朝の三枚おろしより。

今日は友人Nについて語ろうと思います

「Nは、人の話をきかない」→時々暴走する
「Nは、思ったことをすぐ口にする」→時々人に嫌われる
「Nは、ピンクフィルターから抜け出せない」→周りが見えてない
「Nは、時々自信の無いことを自信たっぷりに話す」→時々反感を買う

以上はNが人から嫌われてしまう理由を分析したものです。親しくしてくださってる友人たちの中には、Nのいいところもたくさん見えていると思う。あたしが見えていなかった部分を「Nさんは人から誤解されやすいんだからね」と別の友人に言われてはっとすることもありました。いい方向にとらえれば、それだけ正直者であり、自分を隠そうとしていない裏表の無い人間だといえるかもしれない。それに、Nは目立ちすぎるんです。最初にNを知ったのも、当時彼がかなり目立った活動をしていたからでした。その頃は表面的な部分しか知らなかったので「ちょづいてるなー」って思って遠巻きに見ていたくらい。親しくなると、その人の誤解されやすい部分やダメな部分も見えてきます。でも、誰にだっていいところばかりじゃない。もちろん、あたしにだって欠点はたくさんあります。

誰しも、友人を選ぶものさしはあると思う。だけどこの人にだったら自分の弱い部分を見せてもいいかなって思える人って、実はそう多くはありません。
ものさしは人それぞれだから、たとえば
「趣味があう」「好きなものがいっしょ」「一緒にいて楽しい」で友人を選んでいる人も多いと思います。でも、あたしは今までの経験上、趣味があう人と仲良くなったことはあまりありません。そういう意味では、少し変わっているのかもしれない。あたしが友人を選ぶ(選ぶ、なんていうとおこがましいけど、この場合便宜的に使用させてください)のは、「その人の嫌いな部分を許容できるかどうか」が第一基準になります。人のマイナスな部分に触れたとき、あぁこのひとは無理だ、と思えるような人とは自然と距離と置くようになりました。人の負の部分に触れるときって、人が嘘をつくことにも似てて、その嘘の中にあるほんとうの気持ちに、自分自身が共感できるかどうか、にすべてはかかっているのです。

Nには、動力があります。エンジンを積んで、自分の力でものごとを動かそうという意思があります。
それが常にうまく行っているとは限りません(むしろマイナスに作用しているかも)それでも、なお
あたしは羨ましいと思ってしまうのです。そのエンジンに焦がれるのです。

風にのって器用に空を飛べても、パラグライダーは今以上の高いところへ突き進んでいくことはできません。そして大半の人間が、あたしと同じパラグライダー人間です。風に乗って、なんだか楽しげな気分なところへふらりと飛んでいく。受動的だから傷付くことも、傷つけられることもそうそうありません。なんだつまらないじゃないかと思えばまたふらりと違う場所へ飛んでいけばいい。そのくせ、文句や批判はちゃんと言ったりします。

Nの置かれてきた境遇を考えると、自分を大きく見せようとか、なめられないようにと気勢を張ることでしか自分自身を保って来れなかった内情も想像はできます。だから前述のようなNの傾向を見ても、理解できる(容認できる)部分もあります。それを想像して慮るのは、同情だと思う人もいるかもしれない。だけど、あたしはそもそも人に同情するような優しい人間ではありませんし、おそらく人全般という概念にあまり興味を持ってません。そんなコミュニケーション能力のかけらもないあたしが、ある意味自分が大切にされているという感覚を知らないまま大きくなったであろうNに、どのようにしてその気持ちを伝えていいのかわかりません。
Nのような人物たちは、自分の思うままに飛ぶことで、その寿命を縮めたり、安定をあきらめたりすることがあるかもしれない。でもたぶん、そういう人って、そんな風にしか生きれないんだと思います。だから、周りの人間はハラハラしながら、落ちないようにと祈ることしかできない。そういうのって、運命(さだめ)と言ってもいいのかもしれない。とりあえず、Nはそんな風に生きてます。

つまりなにがいいたいのかというと、

「しゃーなしやな」

ってことなんです。しゃーないですねもう。


今年もあとちょっと。みなさまよいお年をおむかえください。



「マチネの終わりに」読み始めました。毎回そうだけど、最初のページをめくるまでの時間が
ドキドキするので、そのドキドキ感を少しでも引き伸ばそうと、なかなか表紙をめくれませんでした。
読み始めた感想は「んっ?ちょっとごつごつしてるな」って感じ。小説は第一人称で書いて
くれたほうが個人的には感情移入しやすいのですが、第三人称の文面に慣れるまで
まだちょっとかかりそうです。この前に読んでいた「火花」がやわらかかったので、ちょっと固いなー
って思いながら読み進めてます。武田鉄也は「読書は人の身体に自分の頭をくっつける作業だ」
と言っておりましたが、自分の身体にすとんと馴染む小説って、実はそんなに無いんです。
夢中で読んでるうちにだんだんページ数が少なくなって、あぁ、なんか寂しいな。もったいないな、と
思わせてくれるようなものは。これはすごく個人的な感想なので、人によって感じ方は全く違うと
思います。だから、あまり人に本をすすめないし、がっかりするのが嫌なので、薦められた本も
あんまり読みません。
とにかく、「マチネの終わりに」は、ちょっと固い。でもそれも味わいながら、楽しんで読んでます。
まだ序盤なのでなんともいえませんが、あたしには上品すぎて清潔すぎて健康すぎる気がします。
人間のどろっとした感じがあまりない。これから出てくるのかもしれないけれど。
だって、モテモテ要素満点の二人が美しい世界で出会って美しい恋物語を紡いでいく、なんて
ただの御伽噺ですよね。

歴史的背景も取り入れているあたり、「プラハの春」を思い出しました。
「プラハの春」もいっかい読みたくなりました。「ベルリンの秋」は上巻だけ読んでやめてしまったけれどw

おっと脱線。話を戻します。

「マチネの終わりに」についてはまだ途中なので、近い未来に違った感想が書けるかもしれません。
期待をうまく裏切ってくれるとでもいいましょうか。それも読書のたのしいところ。
これは大人の恋愛小説だと紹介されていましたが、小学生のとき「花埋み」を読んでいたような
変わった子だったので、逆に10代の頃の自分が読んでいたらどんな風に感じるだろうな、と思いました。

文章の持つ神秘的で幻想的なものに憧れを抱いていた10代の頃だったら、うっとりと読んでいた
かもしれません。だけど、悲しいことにそういう時期はとうに過ぎ去ってしまいました。
若さに価値があるなどと微塵も思っていない現代の若者たちや、かつて同じように思っていた過去の自分に
さえ、嫉妬することがあります。若さというものが持つ可能性、未完熟であるが故にこれから得るであろう
素晴らしい要素を「まだ持っていない」ということに対する憧れ、嫉妬のようなものが漠然とあります。
持っているものに嫉妬するのではなく、持っていないものに嫉妬するなんて、なんかちょっと変ですけど。

読了後、すぐには感想の書けないあたしなので、この段階でブログに書きました。
昔、村上春樹の小説を読んで自分はなんてからっぽなんだろうと思った。
その圧倒的な虚無感からしばらくの間何もかけなくなった時のことを
今もまだリアルに思い出せます。


またいつか感想書きます。


昨夜書いたのですが、UPするのを忘れていました。


村上春樹の昔の小説だった。おそらく「ダンスダンスダンス」あたりだったと思うが
ふと思い出した登場人物がいた。名前はよく覚えてない。「ディック」とかそんな
感じだったと思う。昔読んだ小説の場面が、急に思い出されたり、当時はなん
とも思わず見過ごしてきた内容が、何かをきっかけに急に「わかる」ということは
人生における醍醐味のひとつだと思います。
自分自身がそれを系統的に理解できるほど成熟したのだといえば聞こえはいいが
決してそうでもないと思う。ただ「わかる」んです。こういう感覚はちょっと人に
説明するのが難しい。

「ディック(仮)」は片腕の詩人として登場する。昔戦争で腕を失くしたという設定
だったと思う。元軍人とはいえ、彼は平和主義者で温厚で、一人の女性を一途
に愛していた。サンドイッチを作るのが得意で、家事全般が苦手なその芸術家の
女性の変わりに全ての家事をこなしていた。女も彼をそれなりに愛してはいたんだ
ろうと思う。でも、彼女の人生の中での最重要事項ではなかった。
彼女はディックからふんだんの愛情を与えられながら、その大切さに気づいていなかった。
そんな時、ディックが事故で突然死する。道端に飛び出た猫だったかなにかを
助けようとして轢かれたのだ。
死んだ後、この詩人は急に存在感を増す。それまでは控えめで目立たず、空気の
ように存在していた男が、いなくなったとたんに、彼女に圧倒的な喪失をもたらす
ことになる。一日中ぼんやりし、作品も作らず、ただ深い哀しみの底にいる彼女を
客観的な立ち位置から分析している場面。

作者はその小説の中で、死者をこんな風に表現した。

死んだ者はただ、ずっと死に続ける
死んだ者はもうそれ以上の喪失をもたらすことはない。
だいじょうぶ。100%死んでいる。

そして、恐らくは同じ意味で「過去」も、そんな風に存在し続けるのだと。

あたしは母が亡くなったとき、この小説を思い出しました。
当時書いた日記にも、この小説のことに触れた気がします。

今がどんなに辛くとも、これ以上の喪失をもたらすことは無いんだと。
忘れるのとは違う。ただ「受け入れる」事が出来れば、ずっと楽になります。
だいじょうぶ。100%死んでいるのだから、それ以上はもう何もおこらない。
この先途方もない、長い時間をかけて、考え続けて行けばよいのだから。

普段「死」はすごく遠くにあるような気がしてるけど、決してそうではなくて
近すぎて、気づかない。壁一つ向こうの出来事なんてまるで他人事で
でもちょっとしたきっかけで、親しい人の死をリアルに想像してしまう事もある。

いつ来るか分からない死に怯えながら一生懸命生きている者がいる一方で
生きながら無気力に人生を過ごし、怠惰のまま死に向かっている人がいます。
彼の口からは人の批判と愚痴しか出てきません。仕事をしない(出来ない)
言い訳に親や家族を引き合いにし、プライドだけは高く、何も生み出さず
誰からも愛されず、廃人のようにただ生きてます。
一度大喧嘩をしてから、一度も顔を合わせたことがありません。

だけどこんな夜には
日中の空が高くなって ふんわりとまあるい余韻が残るこんな夜には
少しだけ、思い出してしまうのです





きっとわるぐちという国があって、そこに住んでいる人たちは
わるぐちが母国語なので、悪口を言っている感覚がないんだ

斉藤一人さんがそう言っていました

あー、そっかぁ。





そしてわるぐちホイホイ投下完了

こはるの大好きなエピソードがあります

アメリカのある牧師が、教会で行われた
子供イベントで出会った一人の少女のお話

子供たちに「魔法使い・巨人・勇者」のどれかを
選んでもらい、自分の役割に沿った行動を取らせます
人間版じゃんけんぽんのようなゲームです
最後は全ての子供たちが混じり合いドタバタと
走り回るようなにぎやかなイベントです

その中で、あるひとりの少女が牧師に言いました。

「人魚は、どこに行けばいいの?」

牧師はちょっと困ります。
「人魚はいないんだよ。魔法使いか巨人か、勇者だけだよ」
そう優しく諭すものの、少女はがんとして受け入れません。

「だって、あたし人魚だもの」

少女にとって自分は人魚であり、そのほかの役割なんて選択の
余地すらありません

ゆるぎない自信と思い込み
社会の枠に入りきれない人たち

そういう存在を人々は恐れ、敬遠します

「差別はあって当然なんだよ」と
東野圭吾は「手紙」の中でそう書きました

誰だって自分や、自分の家族や、大事な人を守りたい

だから脅威を及ぼしそうな人を拒否し、差別し、遠ざける。
それは、生物が持つ生命的本能であり、
それを辞めさせることはできない、と。

枠からはじき出され、行き場を失った者たちは
いったいどこへ行けばいいのだろう。

誰かがどこかへ導いてくれるのだろうか。


牧師は少女にこう言いました
「人魚はどこにも行かなくていいんだよ。
海の王様ポセイドンの隣さ」

そうして牧師と少女は手をつなぎ、ドタバタと走り回る子供たちを
ずっと見ていたのでした。

牧師は最後にこんな言葉で締めました

「僕は人魚と出会ったことがある。手を繋いだことがある」



情緒的で、そのときの様子が目に浮かびそうなシーンです。

枠からはみ出したものたち、
精神的に発展途上の子供たちの中には
一目でそれと分かるくらいわかりやすく異端な者が時々います

良識的な周囲の人間は、怪訝な顔をしながらも
表向きには優しく対応し、そっと自分から遠ざける
そんな光景をよく目にします
東野圭吾が言うように、それは当然の対応であり
強制的にやめさせることはできません。

実際あたし自身もそうやって来ました
恐らくもっと昔、多感だった時期は、あたし自身が
そういう手に負えない子供の一人だったかもしれません
でもそんなことはすっかり忘れています

居場所を誰かが与えてあげるだけで
だいぶ違うんだろうな

とは思うものの


まだまだ牧師さんのようには生きれないこはるんなのでした。


何が言いたいのかわからないよね

いいんですそれで、うん。







ぼんやりとやけど、さびしいなーとか辛いなーっておもう。
だけどその寂しさが、ただ「泣きたい」だけのか「誰かに助けて欲しい」のか
「ただ話を聞いて欲しい」のか、「側に寄り添ってもらいたい」のか
自分がどれだけ病んでいるのか、わからない。
辛いことなら今までもたくさんあったし、いつも元気に笑ってる人だってみんな、
きっとそういう夜を乗り越えて来てる。
でもあたしが聞きたいのはその寂しさそのものじゃなくて、その人が心の中で
どうやってその闇から抜け出して来たかなんだ。
でも、さびしいよ、辛いよって言うだけで、誰もそのことは教えてくれない。
2次元に逃げてる。そう思う。自分の人生を、家族の人生を、背負って行くことから
目をそらしたいから、こうやって毎晩PCに向ってるんだ。
なにもかも放り出して遠くへ行きたいな。でも、そうしちゃったらもう帰れなく
なるんだろうな。もっとがんばれって、みんなは言うんだろうな。
大事なものを守りたいのなら、目をそらしちゃだめだよって。
正論はただしいかもしれないけど、どこかつめたくて、決してこころに届かないんだ。

こころが健全で、正しく機能していれば
「だめだよ、そんな言葉使ったら、相手が深く傷ついちゃうよ」っておもえるけど
今はそんな風に思えない。それくらい、うん。いまはちょっと病んでる。

このできそこないが
このできそこないが
このできそこないが

ずっとその言葉がループしてる。自分が言われたほうが
もっと、ずっと楽だった。おまえのせいでこうなったんだって。
言われたほうがまだよかったよ。

そしてそんな言葉を言ってしまった人だって傷ついてる。きっと。

汚く罵った言葉はぜったいにじぶんにかえってくるから。
あたしが、そうだったから。


内田樹の研究室。コミュニケーション能力についての記事がありました。

http://blog.tatsuru.com/2013/12/29_1149.php

**以下本文より抜粋**

かつて凡庸な攘夷論者であった坂本龍馬は
開国論者である幕臣勝海舟を斬り殺すために勝の家を訪れたことがあった。
勝は龍馬を座敷に上げて「お前さんたちのようなのが毎日来るよ。まあ、話を聴くがいいぜ」
と世界情勢について長広舌をふるった。龍馬はたちまち開国論に転じ、
その場で勝に弟子入りしてしまった。
龍馬を「説得」したのは、勝の議論のコンテンツの正しさではない
(龍馬には勝が語っていることの真偽を判定できるだけの知識がなかった)。
そうではなく、自分を殺しに来た青年の懐にまっすぐ飛び込み、
その知性を信じた勝の「誠」である。

**ここまで**

この記事を読んでて思ったんだけどね、人と人が分かりあうのって、
すごい労力と気力が必要なんだよね。あたしはそれを放棄してる部分があると思う。
「どうせわかってもらえないならいいや」って思う自分と
「ちゃんと見て欲しい。分かってほしい」と思う自分とが常に張り合ってる。
みんなはどうなのかな?同じように思っている人もいるのかもしれないけど。

たとえば恋人や家族にだったら、自分を分かってもらうための努力は自らしてきたと
思うけど、その他の部分になると途端に手を抜く。手を抜く、というか、
たとえばすごい好きな人や好感が持てる相手が現れたとしても
「もしかしたら相手はあたしのことなんて分かりたいとは思ってないかもしれない」
という負の意識が働くため、自分からの働きかけを極力避けてしまう。
そのくせ、言わなくても、伝えなくても"こうである"という理想の自分を
感じ取ってもらいたい。できれば気にかけてもらいたい。
要するにわがままなのだ。

「つまり、コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、
コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す力だということである(内田樹)」

あたしは、それをめんどくさいという理由でことごとく放棄してきた。
そう、全部自分のせいだった。それもよく分かってる。

でも

このまま意識の底に沈んでいくと、
自分が人の記憶から消えてしまいそうな気がする。
その場その場で楽しい時間を過ごしていても、
人は結局のところ一人なんだと、思ってしまいます。

そのために、誰かが必要だった。
あたしを求めてくれて、手を差し伸ばしてくれて、
世界中の皆が君の敵になっても自分だけはずっと側にいると言ってくれる人が。



でも、あたしのコミュニケーション能力では、そこまで人と深くはなれないんだろうな
ってことが、もう絶望的に分かって来ました。
別にそれを悲しんだりはしていないんです。別に悲観してるわけじゃないし、
このスタンスを変えようとも思っていない。
あたしには家族もいるし、平凡だけど幸せな人生を送れていると思う。
遊ぼうと言えば遊んでくれそうな友達だって・・・いるとは思う。


でも、時々何かが足りないって気がする。
それは、大事なものを失くしたようでもあり
いつ失ったかも分からないような不安定なものにすがるような
とても居心地が悪い感情で

心の奥ががしんとさめていて

時々自分を壊したくなる
仮想世界、本の世界に逃げ込みたくなる





ってことで

アマゾンで買った村山由佳 著「天使の梯子」「天使の卵」読了しました。
しばらく本の世界に逃げ込んでいました。てへ



前述の内田先生の記事の追記になりますが、記事内にはとてもいい
エピソードや言葉も含まれていたので2点抜粋します。

まずは以下の文章

「誤答を病的に恐れるあまり「想定外の事態」に遭遇すると「何もしないでフリーズする」方を選ぶ。
彼にとって「回答保留」は「誤答」よりましなのだ。

***
これはあるね。。。。喧嘩するとだんまりしちゃうタイプです(あたしかwww)


そして以下のエピソード

夕食の材料を買い込んでお金を払おうとすると若い男の店員に「ホレーザ、ゴリヨスカ」と言われた。
意味がわからないので、「え?」と聞き返した。店員は同じ言葉を同じ口調で繰り返した。
三度目で、それが「保冷剤、ご利用ですか?」だということがわかった。
同じような「聞き取りそこね」は日々各所で多発していると思う。
でも、考えてみれば、このコミュニケーション不調は、客に聞き返されたときに、
例えば「傷みやすい食材を冷やすために、保冷剤お入れしますか?」と言い換えれば済むことである。
「冷やす」という語が先に来れば、彼の滑舌の悪い「ホレーザ」が「保冷剤」であることは
おおかたの日本人にはわかる。
その手間を惜しんだところに彼のコミュニケーション能力の低さが露呈している。

***
これもあるなぁ。何度聞き返しても同じ答えを何度も言う人。
別の言い方であらわすという努力をしないんだね。これもあたしかwww


難しい内容を、簡単な言葉で綴れるひとに、あたしはなりたい。



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2013年も終わろうとしています。
普段のPC遊びのブログはアメーバブログの方で書いたりしてるので
こちらの更新は久々になります。元々以前遊んでいたサイトが
閉鎖する際にそちらで書いた日記を保管するために作ったブログだったので
更新自体は滞ってました。そもそも、あたしの日記は毎日の記録、という
ものではなく、自分の中にたまったものを吐き出すために書くという
位置付けだったので、書いていないということは、割と元気にしてるという
事だと思ってくだされば幸いです。

2013年は自分の中でも動きのあった年でした。
10年以上勤めていた会社が経営不振のため、大幅な従業員削減をし、漏れなく
私自身もリストラの対象となりました。その会社は今は、社長とその息子
ほぼ二人からの再出発となりました。時代の流れだとはいえ、長らくお世話になった
会社だったので、一抹の寂しさはありましたが仕方ありません。
気持ちを切り替え心機一転、前職でお世話になった会計事務所の担当者様の紹介で
パート先を紹介していただきました。
今回も経理事務のお仕事です。以前は一人で全ての経理事務を任されておりましたので
他の社員との関わりの中で進めていく業務に若干のストレスはありましたが
だいぶ慣れて来たと思います。いやまだまだ仕事は全然出来てませんがw
休憩時間は一人で黙々と本を読んでます。これは以前の会社と変わりませんねw
活字中毒は相変わらずなので今年も本はよく読みました。あたしは割と同じ本を
何度も読み返すタイプなので、2年ほど前に買った「永遠の0」なんてもう
10回くらい再読したと思います。
もうすぐ映画も公開されるという事なので楽しみです。
著者の百田尚樹さんの本はその影響もあり、ほぼ全て読みました。
中でも「海賊と呼ばれた男」「影法師」「モンスター」あたりは好きで何度か
読み返しました。百田さんは最近メディアにもちょこちょこ顔出しているし、
ツイッターでもアンチな書き込みに反応して炎上しちゃったりするくらい
話題性のあるあほなハg興味深いおっちゃんではありますが、
一つの作品を書くときに膨大な資料を読み漁り
その知識の海から生み出される物語は圧巻です。

何かの記事に「同じ本を何度も読む人は成長していない証拠だ。と言う人もいますが
本当はその人が成長しているからこそ、同じ本から毎回違った知識を得ることができる」
という風な事が書いてあり納得しました。以前読んでその言葉の綴りを暗記しているくらい
好きな本でも、毎回新たな発見があります。
10代のころ初めて読んだ本も、今読むと全然違った場所に感動があります。
読書は奥が深いです。


映画鑑賞も好きです。主に邦画しか観ませんが、今年もいい映画にたくさん出会いました。
自分の気分的なもので、割と重いテーマよりさっくり観れる軽い映画が多かったように思います。
「黄色いゾウ」「舟を編む」「そして父となる」は劇場まで足を運びました。
「大木家のたのしい旅行」「すーちゃんまいちゃんさわこさん」あたりはあたし好みでした。

アニメもよく観ましたw ずっと見ていなかった「ワンピース」も1話から全て通しで観ました。
600話以上あるので、長かった。。実際失業期間が2か月ほどあったので助かりました。
あと銀魂も全部観ました。銀魂は映画も見に行きました。
今年のアニメでは「進撃の巨人」にハマりましたね。
あと、「ソードアートオンライン」できゅんきゅんしてました(笑)


そして、ネットでの事。
趣味の個人放送はもう10年近く続けてます。放送を通して色んな友達が増えたし、
口下手で人付き合いの苦手なあたしが長く遊んで来れたのも放送のおかげだと思ってます。
相変わらずグダグダとしょーもないことばっかりしゃべってる放送ですが
それでも毎回聞きに来てくれるお友達、遊んでくれるお友達に感謝です。
今、ネットでの個人放送といえばニコ生が主流ですが、自鯖立てて放送してきた時代から
やってる古株のあたしにはちょっと怖い場所・・・というイメージが抜けません。
若い子が主流だし、すぐ炎上するし、まぁ、リスナーとして参加する分には
楽しい場所だとは思いますが。
今は主にチャットはピグで、ミキセラ主体でやってます。
ユースト使ってるときもあります。
一人でダラダラとしゃべりたいときはねとらじやってます。
リスナーとの距離感は遠いけどそれくらいが落ち着いたりもします。

ゲームは苦手なのであまりしてなかったんだけど、今年は何気にモンハンやpso2にも挑戦
してみました。お着替えや部屋作りは楽しい。でもモンスターは一向に狩れません。
3Dですぐ酔います。
スカッとゴルフ パンヤのほうも細々と遊んでるよ


あと、お友達とお絵かきゲームするときはずっとハンゲームの「お絵かきの森」
でやってたんだけど、ピクトセンスっていうお絵かきサイトを見つけました。
大人数でやれるので、楽しいです。お題無視してみんなでお絵かきしたりねw


ホームページ作成の方は、以前のように頻繁に更新したりはしてませんが
サイトデザインを考えたりするのは相変わらず好きで、特にコンテンツも見つからないまま
自分のホームページを作ったりしてました。
2年以上続けてきたニコッとタウンのアイテムリストのサイト更新をやめてしまってから、
借りてる有料サーバーを遊ばせているのも何となくもったいないので・・

[こはるび] http://cokoa.net/ 独自ドメインのURLです。
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いくつかの悲しい別れがあり、いくつかの新しい出会いがありました。
コミュ障なのは相変わらずで、自分からなかなか声はかけれません。
一言説明したりするだけで、その後の関係が大きく変わってしまったんだろうなと
思わせるような出来事も、一度や二度ではありませんでした。
変わりたかったけど、変われなかった。
それが反省点でもあり、ある意味諦めた点でもあります。
人格というものは、そう簡単には変えられないし、そういう自分とも付き合って
行かなくてはいけないんです。そしてそれはあたしだけじゃなくて、みんな同じ
なんだって。
誰かを変えようだなんて、おこがましい願望なんだなって思い知らされました。
「過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分だけだ」
でも・・・・ぅん。やっぱり、結局は自分だって変えられないんだよ。
特に年を取っちゃうともうだめですにゃ。

母が死んだときブログにも書きましたが、生きているうちに集めたものや
手に入れたものは死んだ途端に不用品となるのだから、生きているうちに
誰かに自分の大事なものを、ちゃんと渡しておこう。
そうすれば、自分が死んだ後もそれはちゃんと残るのだからって
いう風な事を書きました。その思いは変わっていません。
だけど、それがどれだけ難しい事なのか、ただ単にモノをあげるって意味じゃない
ってことは分かってるだけにね。ほんとに難しい。
あたしは家族を含めて、他者に何かを残せているのだろうかって
そういう不安感は漠然と持ち続けてます。

自分の闇を見たくなかった。だから目を逸らしてきた。
今はユングの言葉をかみしめてます。


ネット上も表では、あまり家族の話をしたりしませんが
(ツイッターやブログで子供の写真UPしたりはね・・・しないなぁw)
でも子供も旦那も元気でやってます。まったく何も問題が無い家庭なんて
あるはずはないと思ってるから、小さな問題や諍いはそりゃあります。
でもとりあえず、あたしは元気です。ちゃんと、元気でやってます。

あたしが旦那の両親との同居問題で悩んでいた時期に
すごく心の支えになってくれた同居嫁の人たちとの交流からネットで
遊ぶようになりました。ここには、もう10年くらい前から
仲良くしてくれてる、主婦トークしながら愚痴ったり報告しあったり
する友達もいるので、そういうので助けられたりしてます。

そういう意味ではこのゆるゆるとした空気に包まれている時間は
まだまだ続きそうです。


そんな感じの2013年でした。

そしてみなさま、よいお年をお迎えください♪



twitterID=soulxcage





村上春樹「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」読了しました。
やっと読めた。悪いレビューも結構目にするけど、あたしは割と好きでした。
村上さんの文体、やっぱ好きです、うん。


「架空の一点に焦点を結んだ一対の瞳が、そのことを告げていた。きれいに透きとおってはいるものの、その奥には何もうかがえない。彼が抽象的な命題について思考するときに見せる目だ。それはいつも樹木の隙間から見える山中の泉を思い出させた」

昔、ブログにこの一言を書いた友人がいた。

「伝わらなくてもいい」

あたしは彼が抱える闇の底しれない深さを
恐れながら、どうしてもそれを無視することができなかった。

その頃書いた日記が過去においてます。

http://soulbox.blog95.fc2.com/blog-entry-265.html



誰ともかかわらなくていいと

自分自身の弱さをさらしたくないと

かたくなにすべてを拒んで姿を消した人



包帯を巻いてあげられないのなら

むやみに人の傷に触れるべきではない、と


そう思ってきたあたしに、唯一かかわりたいと思わせた人

でも、包帯を巻かれることを拒否するタイプの人間がいるということも

彼を通じて思い知った



だけど、あんなに会話を重ねて、わかりあったと思えた瞬間もあったのに

拒否された時の絶望は思った以上に大きくて

人と深くかかわりあうことを避けるようになった


つかず、離れず、でも表面的には穏便に、やさしげに

そんな風にずっと過ごしてた


一部の、あたしをよく知る人間には

弱い部分や闇さえもさらすことでそのバランスをとった


そういう意味で失えない大事な人がいます

あたしのエゴで、闇で、ずっと長い間傷つけてきた

それでもずっとそばにいてくれた

想いの形が変わってしまっても、やはり大事な存在であることは変わりありません。



自由を捨て、心の安定を選んでしまったのは自分


だからいま

暗闇の中で、膝を抱えているひとが

何を求めているか分からなくても

それを問いただすことさえできずにいます


あたしはやっぱり

人と深くかかわりあうことが怖いんだと思います

でも、確かにわかっていたこともある



「伝わらなくていい」

そういった人は、そういいながらも、

どこかで差し伸べてくれる手を求めてたのだと思う

だから書くということでそれを発信していた





黄色い花はまだ、咲いていません






幼い子供が手を伸ばして、あれが欲しいと言って泣く。
だけど、泣いても手に入らない。
それを理解してから、人は欲しいもののために泣かなくなる。

とても欲しいものがあった。
それがあれば他の何を捨ててもいいと思ってた。
だけど、心のどこかでもう、絶望的に分かっている。知っている。
本当は捨てられないものばかりなのだと。

降り始めの雪を見上げていた、あの
キラキラした瞳はもう2度と取り返せない。
そしていつの間にかあたしの周りには
身動きできないほどの雪が降り積もっていた。

スナフキンになりたかった。
なにものにも捉われず、自由で、それなのにみんなから一目置かれていて、
手招きされながら、それでも輪には入らない。
欲しいものがあっても手に入れない。
気の赴くままにどこへでも行ける自由さが羨ましかった。
自由というものが孤独と背中合わせにあるものだと知っていてもなお、
自由という豊かな響きに心奪われた。
どんなに楽しい場所に身を置いていても、
心のどこかがしんと冷めていて、人に興味が持てず、
心から愛することができない。
あたしも、あなたも、どこか似ていたね。
あなたはもっと不器用で、それを隠すことさえしなかったけれど、
それでも欲しいものができたと知った時、あたしはあなたを手放した。
大好きな人に幸せになってもらいたかったから。

人は誰かと出会うたびに、心の中に一つの部屋を作り出す。
見栄えのいい家具や、大好きな小物を並べて、
その部屋が居心地がいいように少しずつ変えていく。
やがてその部屋に誰もいなくなったとしても、時々ふいにその扉が開く。
予期せぬ場所で、突然。
それは昼下がりのまどろみの中だったり、読んでいた本の一部分だったり。
そうするととたんにあふれ出す。
あの時見ていた景色、情景、色、匂い、感触、声、その全て。
開けるのが怖くて、ずっとずっと怖くて、何年もしまっていた扉でも、
それでも消えてしまうことは決してなくて、あるときふいに溢れ出してしまう。
そうして声を出さずに泣く。
あの時の自分の想いに。果たせなかった切ない約束たちのために。

秋は嫌いだ。
無防備に心震わせるこの季節が近づいてくるともうダメだ。
冬に始まって、春と夏を一緒に過ごして終わった。
一度も感じたことが無かった季節。
あたしたちの名前が途切れた季節。
頬をなでる風が冷たくなって、
空気がきりりと澄み渡る秋の始まりになると、
いつもいつも思い出すのです。

しばらくは、あなたがあたしを呼ぶ声が聞こえていたよ。
たとえ離れ離れになったとしても、
あたしたちの運命はいつか必ずまた交差すると信じていた。
馬鹿みたいだけどね、うん。

あなたは幸せになれたかな。
誰かを愛することが出来ているかな。
心許ない夕暮れの切なさにひざを抱えていないかな。
あなたがいつもあたしが泣いていないかなと心配してくれていたように、
あたしもあなたのことはずっと心配しています。
今はそれを知るすべもないのだけれど。

そして、そっとまた扉を閉めます。
今度いつ開ける日が来るか分からないけれど。
あたしが何かを書くのはいつもあなたのためだった。
書けなくなったのも、あの日からだった。
悔しいけど、それは何年経っても同じなんだ。
今も、これからもきっとね。


小さな黄色い花は、今もどこかで咲いているのかな。
見かけたら、たまには水をあげてね。

「妥協しない、強い人間に憧れる。」


ある友人の言葉です。



なにものにも揺るがない強い心に憧れて

そしてそれを手に入れようとして

でもやっぱりうまくいかなくて

そういう彼の姿を遠くからみてた



変わってしまう自分に

流されてしまう自分に

そういう強さを持ってない自分に

はがゆさと焦りを感じながらも

でもどうしていいのか分からずに今も立ちすくんでる。


 うわべだけじゃなく心の奥から変わりたい

 人を想い続ける強い意志が欲しい


彼は以前そう日記に書きました。




あたしは



精神的に強くてなにものにも揺るがない人間が

必ずしも精神的に優れているというわけではない

と思ってる。



人は変わります。状況も、こころも。

絶えずいつも変化の途中にあります。

そしてその狭間にあっても

「怒り」「憎しみ」「妬み」「寂しさ」そして

「喜び」「希望」「楽しさ」といった

さまざまな感情はいつも心のどこかを支配している。

汚い感情を見ないようにするのは簡単だし、

もっと別の見目のいい別物にすりかえようと

ごまかすことだって出来る。だけど



寂しさの中から見えて来るものもあります。

妬み、憎しみから気付けることもあります。

こころはどんなに鍛えても決して強くはなれない。

何度辛い思いを味わっても、何度悲しい気持ちが

襲ってきても、それを防御する術さえなく

たちまち感情に支配されてうちひしがれてしまう。

そんなとき心はキュっと固くしぼむ。

その痛みのあまり顔を上げることさえできなくなる。

今まで当然できていた日常生活さえ出来なくなって

自分が一体今までどんな風に過ごしていたのかさえ

見失ってしまう時もある。



でもね、そんな時

痛みを感じないようにこころを閉ざしてしまったら

決して見ることができないものがあります。

たとえば



自分の周りにいる愛してくれる人たちの存在。

自分の犯した過ち。そして償うべき人たちの存在。

そしてなによりも自分自身のこころのある場所を。




「こころを変えない」

もし、自分の中でそう決めてしまったら

全ての感情から目をそらして生きなきゃならない。


こころを変えないために

例えば新しい出会いに臆病になったり

それによって生まれるはずの感情からも

目をそらしてしまう


そして

一度固くなってしぼんだこころには

どんなに声を荒げても届かない。


だから周りの人間にしてみれば

やるせない。辛い。諦めたくなる。



あたしたちはたえまない流れの途中にいます。

はるかかなたより

ただDNAを運ぶ船だけの役割だとしても

この肉体にこころを持って生きている以上

その流れに逆らうことは出来ません。

変わらない、変えられないと思ってる人は

時々できる「たまり」の中で

ぐるぐる回る木の葉のように、

ひとときそこで滞留するけど


流れに押し出されない木の葉がないように

必ず動く日は来ます。必ず。




あたしは

強くて揺るぎない強い人間よりも

弱くて脆くて惨めでも一生懸命悩んで生きている

人の方がずっと人間的に好感を持てます。


色んな喪失を知って、色んな哀しみも知って

その中でも前向きに笑ってる人が好きです。

憧れを常に抱きながら、叶わない思いに葛藤してる

弱い人が好きです。



こころは

鍛えても強くはなれません。

だけど

苦しみを知って

哀しみを知って

切なさややりきれなさを知って

惨めな自分を知って

狡い自分を知って

絶望をしてとことん落ち込んで


そうして


そうしたからこそ

他人に優しくもなれる。

同じように惨めな気持ちになってる人を

思いやることができる。

狡いことをした人を

赦せるようになる。


そう思います。


あたしは

自分の狡さを知ってる。

自分の犯した罪を知ってる。

償うべき人を


知ってる。




そして



そんな自分をそれでも愛してくれて

赦してくれて

側にいてくれる人を、友人たちを

知っています。


それに気付けたってこと、

それらはすべて

閉ざしたこころの中からは

きっと見えなかったものたち。



強くなるって

そういうことだと思うのです。



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