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自我の核というものはなんだろう。
それは形に出来るものなのだろうか。
それとも混沌として混濁した捉えようもない
意識の塊のようなものなんだろうか。


村上春樹「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
もう数え切れないほど読んだこの一冊を今日読み終えました。
今年に入ってから村上作品を読むのは
「海辺のカフカ」「ノルウェイの森」「ダンスダンスダンス」に続き
4作品目です。村上春樹の長編小説の中でもこの
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」はあたしの中で
ずっと1位をキープしている小説。
小説の中では「2つの物語」が交互に展開していきます。
小説のタイトルどおりなのですが・・

「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」

村上小説の特徴は物語が一人称で語られて行くところにあります。
「世界の終わり」では「僕」
「ハードボイルドワンダーランド」では「私」
「世界の終わり」が「静」ならば「ハードボイルドワンダーランド」は「動」とも
言える、この全く違う世界で主人公たちは物語を展開して行きます。
下巻のはじめくらいまで読むと、この二つの物語の関連性が分かって
来るんだけど、最初は一体なんだろうと謎を残したまま読むことになる。
最初は話が交互に語られるため戸惑うのですが、
流れに乗れると読み進むのは早いです。

個人的に言えば、あたしは「世界の終わり」という物語が好きです。
極寒の地で、慎ましく静かに暮らす人々。愛や憎しみや哀しみを
自ら放棄して平穏な暮らしを選んだ人々と、その代償として死んで
行く一角獣。そして永遠に続く時間、不死。
不死とはどのようにしてもたらされるものなのか。
本編ではそれについてこんな風に記述している。

人間は時間を拡大して不死に至るのではなく、時間を分解して
不死に至るのである、と。

いつか、何かの本で読んだことがありますが、人の脳というものは
実際に行動して体験した経験も、夢の中で見た場面や経験も、
同じように処理をしていくと言う。だから、夢の中の出来事だって
実際に自分の身に起こったことと考えても不思議ではない。
私たちは現在生きているこの限られた時間が支配する場所に
いる限り、永遠の生を得ることは出来ない。だけど
意識の中では不死というものが存在する。
肉体を持たないのだから、永遠に夢の中にいられるのならば
人はそこで永遠という時間を生きることもできる。

朝、あたしたちは目が覚めます。そこではじめて
「ああ、夢だったんだ」と思う。現実と夢の世界。
そこに違いを見出そうとしても、概ねあたしたちはうまく区別できません。
目が覚めるから「夢」が存在する。でももし覚めなかったら・・・?
「夢」はずっと「現実」のままなんです。

この本はハードボイルド系要素も結構楽しめます。あたしは
冒険物などは読まない方だけど、こういう設定は悪くない。
機密情報を守ろうとする者とそれを奪おうとする組織。
主人公の「私」ががその陰謀に巻き込まれていくわけだけど、
そこには私たちが普段日常で感じている概念では
ちょっと考えられないようなエピソードが出てきたりする。
人が闇の中に見る得体の知れない恐ろしいものの形を
一つの象徴的なものとしてうまく表現していると思う。
Tカポーティ「夜の樹」のように”とらえどころのない闇”
というものはあたしたちの周りにあるのではなく、恐らく
自分自身の中にあるものが具象化したものなのだろうと思う。
それがどんなに混沌として醜いものでも、ほんとうは
目をそむけてはならないのだ。それは確かに自分自身の一部で
あることは間違いないのだから。


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コメント

  1. のぶ | -

    俺もさっき、ダンスダンスダンス読み終えた。
    感想は、今度w
    絶望的な終わりをなんとなく予測してたんだけど
    いい終わり方だったね。
    俺も今の場所にとどまれるといいな・・・

    ( 01:51 )

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