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こはるの大好きなエピソードがあります

アメリカのある牧師が、教会で行われた
子供イベントで出会った一人の少女のお話

子供たちに「魔法使い・巨人・勇者」のどれかを
選んでもらい、自分の役割に沿った行動を取らせます
人間版じゃんけんぽんのようなゲームです
最後は全ての子供たちが混じり合いドタバタと
走り回るようなにぎやかなイベントです

その中で、あるひとりの少女が牧師に言いました。

「人魚は、どこに行けばいいの?」

牧師はちょっと困ります。
「人魚はいないんだよ。魔法使いか巨人か、勇者だけだよ」
そう優しく諭すものの、少女はがんとして受け入れません。

「だって、あたし人魚だもの」

少女にとって自分は人魚であり、そのほかの役割なんて選択の
余地すらありません

ゆるぎない自信と思い込み
社会の枠に入りきれない人たち

そういう存在を人々は恐れ、敬遠します

「差別はあって当然なんだよ」と
東野圭吾は「手紙」の中でそう書きました

誰だって自分や、自分の家族や、大事な人を守りたい

だから脅威を及ぼしそうな人を拒否し、差別し、遠ざける。
それは、生物が持つ生命的本能であり、
それを辞めさせることはできない、と。

枠からはじき出され、行き場を失った者たちは
いったいどこへ行けばいいのだろう。

誰かがどこかへ導いてくれるのだろうか。


牧師は少女にこう言いました
「人魚はどこにも行かなくていいんだよ。
海の王様ポセイドンの隣さ」

そうして牧師と少女は手をつなぎ、ドタバタと走り回る子供たちを
ずっと見ていたのでした。

牧師は最後にこんな言葉で締めました

「僕は人魚と出会ったことがある。手を繋いだことがある」



情緒的で、そのときの様子が目に浮かびそうなシーンです。

枠からはみ出したものたち、
精神的に発展途上の子供たちの中には
一目でそれと分かるくらいわかりやすく異端な者が時々います

良識的な周囲の人間は、怪訝な顔をしながらも
表向きには優しく対応し、そっと自分から遠ざける
そんな光景をよく目にします
東野圭吾が言うように、それは当然の対応であり
強制的にやめさせることはできません。

実際あたし自身もそうやって来ました
恐らくもっと昔、多感だった時期は、あたし自身が
そういう手に負えない子供の一人だったかもしれません
でもそんなことはすっかり忘れています

居場所を誰かが与えてあげるだけで
だいぶ違うんだろうな

とは思うものの


まだまだ牧師さんのようには生きれないこはるんなのでした。


何が言いたいのかわからないよね

いいんですそれで、うん。






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