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初めてあめふりろぼっとに逢ったのは小学校4年の時、
学校の帰り道だった。
その日は雨で、一月の冷たい雨で、
商店街を抜けた路地の入り口で
コンクリートの塀の端っこで首をうなだれるようにして
あめふりろぼっとは座っていた。その様子は
まるで濡れそぼった捨てられた犬のようで
誰にも気付かれたくないような、でも、誰かに気付いて
欲しいような、悲しい光が目の奥に宿っていた。
「あめふりろぼっと」というのはあたしが勝手に付けた名前だ。
だって、雨降りの日に逢ったロボットだから。
そのまんまだよね(笑)

そのまま見過ごして帰ろうかと思ったけど
スナオ虫が耳元で「ちょっとおもしろそう」って
呟くのが聞こえたんだよね、その声を無視することが
出来なくて、うなだれているロボットの目の奥を
じっと見つめてみた。あたしがしゃがみこむと、ちょうど
あめふりろぼっとの顔を覗き込むような形になったから
きっとあたしと同じくらいの身長だなと思った。
そんなに怖くは無かったよ。
だって、あめふりろぼっとの目はとても優しそうだったから。

最初の問いは覚えてない。
「どこから来たの?」だったかも「あなたはだぁれ?」
だったのかもしれない。だけど、あたしが問いかけたことで
あめふりろぼっとが少しだけ動いたのを覚えてる。
長い長い冬眠のまどろみの中から、ふいに揺り起こされたような
一体何がおこったんだろうというような感じで。
首をちょっとかしげて、ゆっくりと顔を持ち上げた。
あめふりろぼっとのカラダは、ディープブルーの絵の具で3歳児が
ぐちゃぐちゃに塗りつぶしたおもちゃが長い長い時間雨ざらしのうちに
色あせてしまったような青で、ところどころ錆び付いていて、
それはそれはお世辞にもキレイとはいえない青だったけど、
あたしにはそれがまっさらな青色に見えて、悪くなかった。
ぅん、そう。生物が死んで、肉体が風化されてカラカラの骨になったような感じ。
肉体は汚くて臭くて嫌味たらしくて嫌いだ。でも骨になってしまうとまっさらな
白で、そこには愛憎や欲やどろどろした感情なんかもう無くなって
ただうつろに軽く、失ってしまった肉体をいとおしむように、ただ哀しげに
ひっそりと存在している。そういう骨のケナゲさが好きだ、と思う同じ気持ちで
あめふりろぼっとに好感を持ったんだ。あの時はうまく説明できなかったけれど。

長い長い時間、今思えばそれは数分の出来事だったかもしれないけれど
あめふりろぼっとはその空ろな目であたしをじっと見ていた。
ううん。見ていたのかな?本当はわかんないや。あたしを通して、あたしじゃない
誰かを見ていたのかもしれない。たとえばスナオ虫を。そんな風に感じた。
あたしは自分のさしていた傘をあめふりろぼっとに差しかけてみた。
ロボットが風邪を引くことがあるのかな?わかんないけど、その時は
そうすることがいいような気がしたんだ。
「どうもありがとうね」ではなく「これはなんだろう」という風にあめふりろぼっとは
あたしのさし掛けた傘を少しだけ見て、また視線を戻した。だけど
あめふりろぼっとは、あめふりなんて気にしていない様子だった。むしろ
降り注ぐ雨の中にいたいのではないか、と思った。
「なんだコイツ、なんもしゃべんないじゃん。ささ、帰って早くおやつ食べようぜ」という
スナオ虫の声が聞こえる。あたしはそれを無視して、ただそこに座っていた。

そのうち、ただ座っているだけの状態に飽きてきた。
あたしにだっていろいろとやることはあるからね。
それにもう「ゆうやけこやけ」の時間。早く帰らないとママに怒られちゃう。

「じゃぁ、またね」あたしはそういうと、あめふりろぼっとに手を振った。
「じゃぁ、またね」それはまたいつか会える呪文。翌日も、その翌日も
あめふりろぼっとはそこにはいなかったけど、あたしはきっといつかまた会えるって
思ってたんだ。そうだね、きっと・・・雨が降れば。
だけどその日から、なかなか雨は降ってくれたなかったんだ。

「雨だ」その日あたしは布団から飛び起きた。雨の匂い。
鼻につーんとくる、アスファルトに叩き付けられた雨粒が立ち上ってくる、
あるときには草いきれの中から匂いたつ土のような、あの雨の匂いだ。
あたしは昔から雨には敏感だった。
あめふりを待っている間感じたことがある。いつもは晴れた日の方が
ダントツに多いんだってこと。ママは洗濯物が乾かないって文句言うけど
数え切れない晴れの日に感謝しなさい。こんな雨の日にはね。
そういうと「何よ、えらそうね」と言ってママは笑った。
ママが笑ってくれるとあたしも春先のリスのように嬉しくなる。

喜び勇んで学校へ向かう。いつもより30分も早い。
ゆうみちゃんといつも待ち合わせてる「タナカ木材店」の三叉路。
そこに行くまでにあめふりろぼっとに会わなくてはいけない。
だけどだけどだけど、あめふりろぼっとはあの場所にいなかった。
ガーン。ガーン。
もう、ショックのあまり口もきけなくって、いつも声かけてくれる
マスダのおじちゃんにも「おはようございまーす」が言えなくて、
「タナカ木材店」の前でゆうみちゃんを待つ間もずっと
うつむいて、もうコノヨノオワリみたいな顔をしてた(らしい)
ゆうみちゃんがそう言ったんだ。「コノヨノオワリみたいな顔してるね」って。
その時は意味がよく分からなかった。ゆうみちゃんはいつもいっぱい本を
読んでいるから、ゆうみちゃんとお話をするのはいつも楽しくてすきだけど
時々訳の分からないことをいってあたしを苛立たせる。
黙っているあたしを気にしているのかそうじゃないのか、ゆうみちゃんは
独り言のようにこんなことを言った。
「5年になったらりゅうせいくんと同じクラスになれるかなぁ・・」

ゆうみちゃんはりゅうせいくんのことが好きだ。
あたしとりゅうせいくんが同じクラスなので、ゆうみちゃんは休み時間になると
遊びに来る。ゆうみちゃんがりゅうせいくんのことをしょっちゅう目で追ってて
そのたびにあわてたり赤くなったりするのを見ているのがすきだった。
かわいいなぁって思うし、好きって感情がまだよく分からないあたしにも
少しの恋の切なさみたいなものを与えてくれる。だけど
あたしはりゅうせいくんが嫌いだった。ゆうみちゃんの前では言えなかったけど。

りゅうせいくんは、日直のあたしが黒板を消しているとき
決まって横から落書きをしてくる。何度「やめて」って言ってもやめない。
あたしが好きなアイドルの話をしていても「けっ、趣味わりぃの」って
憎まれ口を言う。作文の発表の時、緊張してみんなの前で発表してる時、
「何いってるかわかりませーん」と横で言ってみんなをどっと笑わせた。
あたしにとっては自慢の出来だと思った作文だったのに。
胸の奥のほうから空気の塊が昇ってきて、息が詰まって苦しくて
目の奥が熱くなって、泣きそうになるのを我慢するのがせいいっぱいだった。
あたしが好きだというものをぜんぶ、けなされて、拒否されて、傷付いた。
すごく、すごく傷付いた。
そんな風に人を傷つけるりゅうせいくんが、あたしは嫌いだった。

朝から降り出した雨は、給食の時間になっても降り続いていた。
カミナリさまがきっと雨のスイッチを入れたまま、居眠りしているんだと思った。
下校時間になるころには雨足も一層強くなっていた。
「起きて!起きて!カミナリさま。もうそろそろスイッチ切ってもいいんじゃないの?
雨の在庫、なくなっちゃうよ?」
その日もりゅうせいくんから髪の毛を引っ張られて、お気に入りのヘアゴムの
うさちゃんが取れちゃって哀しい気分になった。
あんなに待ち望んだ雨だったのにね、雨降りが嫌いになりそうだ。
傘を差して雨の中を歩き出すと、途端に強い雨粒が傘を激しく叩いて来る。
長靴をはいていても、後ろから水が入ってくるような気がして気持ち悪い。
朝、ウキウキした気分でお気に入りのソックスをはいてきたのを後悔した。
もっと小さい頃は長靴をはいて水たまりで遊ぶのが好きだったのに。
朝はあんなに雨の日を楽しむ気分でいっぱいだったのに。
あの気持ちは一体どこへ行ってしまうんだろう。
スナオ虫は出てこない。ほんっとにもう、気まぐれなんだから。
こんなときこそ、慰めなさいよね。
ゆううつな気分で商店街を抜ける。路地が見えてくる。
そして「・・・いた」

そこには、あめふりろぼっとがいた。


あめふりろぼっとは、コンクリート塀の、同じ場所で、やはり同じように
座っていた。だけど、今日は少し元気そうに見えた。目の中でちろちろと
ほのかな光がちらついている。
「また、会ったね」今度はあめふりろぼっとのほうから話しかけてきた。
声はしずかで、ひくく、雨音に消されてしまいそうなくらい控えめだったけど
あたしにはちゃんと聞こえた。
「うん」とあたしは言う。
「すまなかったね。せんじつは・・・・ちょっとびっくりしたんだ」
あめふりろぼっとはそう言った。せんじつ、の意味がすぐに呑み込めなくて
ただオウム返しのように「びっくりしたの?」の聞いていた。
「そう」
そういったまま、あめふりろぼっとは静かにあたしを見た。
目は、相変わらず優しげだった。
「もう、なんねんも、誰ともおしゃべりしてなかったからね。ことばをうまく出せなかったんだ」
誰とも話せないということが、どんなに辛いことなのか、あたしにも分かる。
風邪引いて一日声が出ないだけでも、すっごく辛かったもん。
「また、きみにあえてよかった。次に会ったら謝ろうと思ってたんだ」
「雨が降ったら、また会えそうな気がしていた」とあたしは言った。そうだね、というふうに
あめふりろぼっとは笑ってうなずいた。それであたしたちは友達になれた。

あめふりろぼっとに会えるのは雨の日だった。それも夕暮れが間近な時間帯しか
あめふりろぼっとを見ることはできなかった。なぜだろう?雨の朝、あめふりろぼっとは
確かにそこにいたのに、あたしが気付かずに通りすぎていたんだ。
「きみがこっちをみて、そして通り過ぎたからきっと怒ってるんだと思った」と
あめふりろぼっとは言った。
「どうして見えないのかなぁ?」
「よのなかには、見えているものの方がめずらしいからね」
あめふりろぼっとは当然のことのようにそう言う。そうかもしれないと思った。
虹が七色に見えるのは日本人だけだとママが教えてくれた。
同じ場所で同じものを見ていても、その人によって見え方は違うんだろう、きっと。
スナオ虫はどう思っただろう?
意見を聞きたかったけど、かんじんな時に出てきてくれない。

「解決できないことは、とりあえず箱の中にいれておくといいよ」
あめふりろぼっとはそう言った。「解決できないことのほうがだんぜんに多いからね」

あめふりろぼっとは、あたしの師匠だった。あめふりろぼっとが見えなくなってからもずっと
彼の言葉はあたしの中で息づいていた。彼がしゃべる、低くてしずかな声は
あたしの中からずっと消えることはなかった。
あたしの中には、解決できないまま箱に入ったものたちが今もまだたくさんある。
でも、きっとそういうものだと思えた。それがあたしが生きていくってことなんだと。

学校で、あめふりろぼっとの話をしても、誰も信じてくれなかった。
ゆうみちゃんだけが「あたしも会ってみたいな」と言ってくれたけど、
それも本当に信じてくれていたかどうか分からない。
だから、あめふりろぼっとの事は誰にも話さなくなった。
りゅうせいくんなんか「おい見ろ、マツコが壊れたぞ!」と大声でからかったりした。
マツコというあだ名はりゅうせいくんがつけたものだ。他にはだれもあたしのことを
「マツコ」などと呼ばない。あたしの名前は「マツモト リコ」上と下をくっつけた
だけの安易なあだ名で呼ぶ同級生を、あたしはにらみつけて無言の抵抗を
示すくらいしか出来なかった。

「なによ、マツコって、古臭い名前」
あたしが怒ってそう言うと、あめふりろぼっとは「そう?」と首をかしげた。
「ステキだとおもうけど」
「えーーどこがーー?!」スナオ虫がいたら一緒に「ゲー!」って
言ってくれるのにな。そういえば、スナオ虫はどこへ行ったんだろう。



(昨日からなにげに書き始めた物語。続き、また書いたらUPします)

思い出はときおりにわか雨のようにやってきて

濡れたアスファルトのように心を黒く染める。

だけど過去に捉われ傷付いているなんて

不毛だ。無意味だ。滑稽だ。



過去は変えられない。ただじっとそこにある。

死んだ人はずっと死んだままだし

去った恋人は戻っては来ない

後悔は過去を取り戻すための悪あがきの

ようなもの。心を掻き乱すだけで出口は無い。




古いアルバムをそっと取り出して眺めるように

そんな風に過去が存在していたらいい。

まだアルバムにおさめることが出来ない過去も

無理やりそこへ押し込めて、表紙を閉じるんだ。



失ったものは、もう二度と失うことはできないのだから

ある意味安心していられる。一度失ってしまったものが

それ以上の喪失をもたらすことはない。

もうこれ以上傷付くことはない。だから大丈夫。



あとは時々襲ってくる心の痛みをやり過ごす方法を

考えればいい。襲って来そうになったら

意識の奥ふかくへとゆっくり、ゆっくり沈めて

ゆっくり、ゆっくりたがやしていけばいい。

そうしているうちに、わからなくなる。

あれほどあたしを支配していた

深い喪失感も、そのうち感じなくなる。





昨夜チャット中に友人が語った内容。

彼はまだ去年別れた女性のことを想っている。

その彼女からメールが来た。「元気?」とかいう

たわいないものだ。でも彼は返信しなかった。

彼女と別れてからまだ新しい恋をしていない彼にとっては

何の躊躇もいらないような気がするけど

「またずるずると同じ事を繰り返すようで、それが嫌だった」

と彼は言った。いつも辛口でふざけたことばかり言ってる

友人だけど、そのストイックさにちょっと脱帽。


 かっこいいよ、たっちん!!111
        (と、たまには褒めておくw)




信念を貫くのは強い意志が必要だし、孤独だ。

だけどそれを長く続けていると、そのうち孤独にも

慣れてしまい、やがて寂しいとも思わなくなる。

親密な関わり合いを煩わしく感じるようになる。

でも、また恋はしてもらいたいと思う。

恋に限らず、人を成長させるのは、やっぱり人との

つながりの中にあると思う。その中でも、自分以外の

他者と最も深く関わって行くのが恋愛だと思うから。

まだ若いんだし、独身なんだから、どんどん恋も

しちゃってください。いらん世話だってまた言われそうだけどw



恋しているといいことばかりじゃないけれど

深い哀しみも喜びも、胸を焦がすような切なさも

それらを相手とのかかわりの中で見ることで

見えてくるもの、得るものがある。絶対に。



誰かを深く思いやること

愛すること

与えること

じっと、耐えること



心の色を上塗りしていくたびに

その瞳の奥の色もふかくなっていく





::::::::::

「いのちの根」



なみだをこらえて

かなしみにたえるとき



ぐちをいわずに

くるしみにたえるとき



いいわけをしないで

だまって批判にたえるとき



いかりをおさえて

じっと屈辱にたえるとき



あなたの眼のいろが

ふかくなり



いのちの根が

ふかくなる




::::::::::::



流されて生きるのも幸せな選択かもしれない

だけどプライドを持って孤高に生きている姿は

周りに何らかの作用を与える。



人の心を動かすものは、きっとそういう力。

見えないけど、強い力。












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✞トラネス✞ (04/24, 22:03)
たっちん、株あがったよねw昨日はw






こはる◕‿◕❀ (04/24, 23:51)
次は下げとこう・・・




あきひと (04/24, 22:16)
読みました。思い出は美しくなるから(*´・д・)(・д・’*)ネー♪






こはる◕‿◕❀ (04/24, 23:51)
だねーーー




こっこ (04/24, 22:34)
ウンウン(*´ェ`*)人と人の、つながりの中で色んなコトや想いとか
積み重ねて行くんだよね。






こはる◕‿◕❀ (04/24, 23:52)
゚.+:。(*-ω-)(-ω-*)゚.+:。ウンウン
出会いは大事にしたいねー




野ウサにP♡ (04/24, 23:49)
いつまでも傷として残しておくのか、今の自分を自分たらしめているひとつの思い出とするのか、思いようなんだョネ。
でもね、恋はね~σうさゎメンドクセーって感じ∑(ノ∀`)日ごろ人とのつながりを深めていかなきゃって言ってるくせに( ・_ゝ・)(・c_・` )ナーw
なんか、リアルで恋ってできなくなっちゃった
それは臆病になっているだけなのかもしれないけれど、なんだか心が動かない
ま、σうさゎ恋なんてしなくても生きていけるって思ってるし(なんか投げやりに聴こえるけどそうじゃないからネw)そのための武装もしています(。◕ˇ艸◕)ププッ 






こはる◕‿◕❀ (04/24, 23:52)
たっちんと、どうや?






野ウサにP♡ (04/24, 23:59)
( ゚∀゚)・∵. ウサッ!!
たしかに~性格良いし~って、σうさ男やんΣ( ̄ロ ̄lll)






こはる◕‿◕❀ (04/25, 01:11)
∑(゚ω゚ノ)ノ キュ!!!この期におよんでっ






野ウサにP♡ (04/25, 18:38)
Σ( ̄ロ ̄lll)よく考えたら、たっちん女だからいいのか?でも、主婦だしナー∑(ノ∀`)ペチッ






こはる◕‿◕❀ (04/26, 07:40)
いろんな意味でミラクルな2人ですよね!




mahiro (04/24, 23:50)
やさしさだなー。男らしぃ。






こはる◕‿◕❀ (04/24, 23:52)
んだ!惚れそうになった!(嘘)




なおき✥ (04/25, 07:11)
ハンゲも心を動かします。┏○ペコ






こはる◕‿◕❀ (04/25, 07:26)
最近何をして遊んでるの?誘ってやー




❀恋雪❀ (04/26, 08:05)
最近 歳のせいか(笑)
ある意味 孤高にプライドをもって生きなくても(なんていうか・・弱いかもダケド キモチのままに自然にしていても)
神様が すべて決めてくださっている気がしてきちゃうの・・。
つまり 「成る様に成る成れるようになる」 って 心境かもしれないわぁ・・(;´▽`A``






こはる◕‿◕❀ (04/26, 16:42)
まるくなっちゃぅよねぇ。。。
プライドとかも、なんか突っ張ってたのが
バカらしく思えたりね。ありのままに、
なされるままに、自分らしく、肩肘はらずに
生きていけるようになるのかも。
こゆちゃん、悟ってるなーー




⊹⊱✞ヵヴ寿✞⊰⊹ (04/26, 09:10)
恋は人を成長させるんだね(◡‿◡*)❤






こはる◕‿◕❀ (04/26, 16:43)
うん(〃∇〃) 絶対そーよ




どら (04/27, 09:11)
恋したいなーー
貰ったものは、返そう、(≡^∇^≡)ニャハハ






こはるё (04/27, 17:13)
にゃははw




腸胃悪主婦 (04/28, 16:18)
オイラ(・∀・)カコイイ!!






こはる (04/29, 11:11)
はぃはぃ・・




この映画を観て、すぐ感想を書こうと思ったのだけれど
うまく自分の中でまとめることができずにいた。
どうすればこの作品の良さを伝えることが出来るのだろう、と。
しばらく寝かせておく熟成作業は必要だったのかもと思う。
まぁまだ時期が来ていない感もあるけれど。

舞台はフィンランド。小林聡美演じる主人公が
フィンランドで日本料理店を経営する中で、そこで
出会い、触れ合う人々との日常を描いたもの。
まず、このタイトルの「かもめ食堂」という名前の
イメージで、薄汚れた店を想像していたのだけれど
映画に描かれていた「かもめ食堂」はとってもおしゃれな
お店でした。ガラス張りの明るい店内。こだわりで
揃えられた小物たち。コーヒーメーカーから立ち上る
コーヒーの香りが感じられる優雅な時間。
好きなモノたちに囲まれて過ごす毎日は幸せだろう。
けれど、背景に流れる優雅さとは打って変わって
かもめ食堂にはお客さんがさっぱり来ません。
記念すべき最初のお客さんは貧乏学生で、
毎日タダでコーヒーだけを飲みに来ます。
だけど、主人公の彼女は前向きで明るい。そして
どんな人にでも誠意を持って応対します。人は自分に
利益をもたらす人は大事にするけれど、そうじゃない人
にはぞんざいな態度を取ったり軽くあしらったりするもの
じゃないですか?でも彼女は違うんです。
その彼女のキャラクターがこの映画全体に流れる雰囲気
というもの作り上げています。

店はさっぱり繁盛しなかったけれど、彼女の周りには
吸い寄せられるようにあらゆる人たちが集まってくる。
みんな、ココロのどこかに痛みを抱えていて、休息や
癒しを求めている。みんなが道に迷っているけれど
彼女がそれについて助言したりということはない。
だけど、彼女のそばにいるとほっとする。落ち着ける。
だからみんな、ここがずっと自分のいる場所じゃないと
分かっていながら、どうにも離れることができずにいる。

以前読んだ本の中にこういう言葉があった。
「目の前にいる人を最愛の人だと思いなさい」
自分に好意を寄せてくれる人を、人は嫌いにはなれない。
どうにかして、何らかの形で、返そうとする。
赤ちゃんが笑えばついつられて微笑んでいるように。
笑顔は伝染するって思う。

いつでも彼女は自分らしさを失わない。
それは強くなければ出来ないことだと思う。
自立できていない人間が他人に何かを与えることは出来ない。
一人で立つことが出来て初めて、人は人に優しくなれる。
この映画の中で不思議だったのが、主人公以外の
人々の苦悩や葛藤は垣間見ることが出来るのに、
一番肝心な彼女のそれが見えてこない。
彼女の嗜好や、好きなものはたくさん見えてくるのに。

客が来ないことへの不安や、悩みもあっただろう。
だけど、彼女はいつも”彼女らしく”存在しているだけだ
ただそこに。
映画のラストでは「かもめ食堂」はたくさんのお客様で
にぎわう大人気の店になる。だけど、彼女はどんな状況に
置かれても、きっとそのまま変わらないんだろうな、そう思った。

願わくば
そういう人にあたしもなりたいって思う。
大きな流れの中で、自分を見失わずに生きていくことは
ほんとうに難しいものだから。

決して派手なシーンや緊張する場面は出てこないけど
観終わったあと、ココロがほんわかとなる映画でした。
薦めてくれた友人に感謝。

  過去と他者は変えられない

  変えることが出来るのは

  未来と自分だけだ



どこかのテキストサイトで目にした言葉。

本当にそのとおりだと思う。


だけど、人は

他者を変えようとする

過去起こった出来事を修正したいと願う

だから無理が出てくる。焦燥や葛藤が生まれる。

そんなこと、できるはずもないのに。



「あのとき、こうしていればよかった」

なんて思いながら過去に生きているのなんて

きっと耐えられないし、自分らしく生きれない。

一瞬の思い出にすがって、生きていく気持ちも

今なら理解できるけれど・・・



過去はあまりにも静かすぎて、波風ひとつ立たない。

動かない。だから例えようもなく寂しくなる。

過去はどんなに美しくても、これからの自分に何も

与えてはくれない。もう何一つとして。

それが分かっていてもすがってしまう。なんて愚かなんだろう、人は。



そう、もっともっと昔は、未来は輝いてた。

この先に何が起こるのだろうと

考えただけでドキドキした。

過去はまだ少なく、すがる思い出も何一つなかった。



だけど気がつけば

いつの間にか未来より過去のほうが光を放ってる。

過去の自分ほど、未来の自分が輝いているなんて

思えなくなってることに気付く。



もう、ワクワクする未来が自分を待っているなんて

思えない、どうしても。

あたしはすでに、次の舟へ何か大事なものを渡してしまった。

希望とか、未来とか、憧れとか、夢とか

そう呼ばれるようなものをすべて。



はるか太古の彼方からずっと乗り継いできた舟に

小さい子供たちを乗せてしまうと、大人たちはそこから

降りる決断を迫られる。舟には乗れる人数が決まっていて

誰かが降りないと沈没してしまう。ある一定の年齢に

達すると、そういうことが自然と見えてくる。

これはもう決定的に身体で感じる。もちろん舟から降りても

あたしたちの人生は続いていく。舟が転覆しないだろうかと

ハラハラ見守りながら、弱々しく岸辺から手を振ったりもする。


まぁそれも気楽な人生なのだろうけれど

その先には決して行けない。



自分本位に生きられるのは若い者だけの特権だ。

そのうち嫌でも生きられなくなる。自分以外の他者、

子供や恋人や、家族などのために自分を殺さなくては

ならない、そういう日がやってくる。

それを成熟と見るか、退行と見るかでずいぶん心持ちも

変わってくるものだけど。



「未来は変えれる」確かにその通り。だけど、

過去が重く、深くなっていくたびに変えるのが怖くなる。

大きな変化が怖くなる。

変える為に動かす力を出すために何かを捨てなくてはいけないから。

過去の産物はあまりにも重く、肩にずっしりとのしかかってる.

降ろせば楽になれるだろうと思っていてもなかなか降ろせない。




ずっと、心に残ってるセリフがある。

ムーミンに出てくるスナフキンの言葉だけど

何気なく目にした日から、ずっとずっと心にささくれのような

ものを残してる。普段は忘れていても、時々ふとした

拍子に引っかかって立ち止まる。そんな感じ。


 「ものは自分の物にしたとたんに、

 あらゆるめんどうが降りかかってくるものさ。

 管理したり、移動させたり。

 ぼくはいつだって見るだけにしている。

 そのほうが重い荷物をウンウンいいながら運ぶより

 ずっと楽だからね」



欲しくても手に入れない。

そんな生き方が出来る人間は強い。

自由であるということは孤独なものだし、

そのための強さが必要になってくる。

他者に依存しながら、自由でいられるなんて思ってたら

大きな大間違いだ。



だから多くの人が自由と引き換えに他者と共存

あるいは他者に依存(あるいはその両方を)することを選ぶ。

重い荷物をひとつづつ背負っていく。

手に入れてしまえば、それに対する責任も出てくる。


そしていつの間にか、あらゆるものを背負ってしまっている

未来さえも動かせないくらい窮屈になってしまう。

変えるための力さえ、奮い起こせないほどそれは重い。



だから、たとえ馬鹿げた約束でも

未来の約束が一つあればそれで救われる。

未来を、動かす約束が。


刹那の自己満足だと思われようとも。



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こはるё (04/27, 20:32)
てか、イミフな日記だよね!
読んだけど自分でも判んない( ̄m ̄〃)




✞トラネス✞ (04/27, 21:52)
読んだ・・・(´。`;)
今日の日記は体力使ったw

未来になにかしらの希望があれば、強く生きられるんだよね。過去が、その動力源になればいいんだけどな。






こはる (04/27, 22:34)
おちゅかれのところ疲れさせちゃってごめんなさい!
書くのも体力使っちゃったよ(ノᆸ`✰)ペチ




満ちていく月 (04/27, 23:36)
今アタシに足りないのは、 たぶん、「月」を未来へと動かしていくチカラ…。

うん…。






こはる (04/28, 01:02)
動き出してみようよ。。




ひろ☆彡 (04/28, 07:54)
子ども心に スナフキンがかっこよくみえたのは 子どもの話の中に一人大人な台詞とか みてるこっちを諭されてるような そんな雰囲気あったからかなぁ
朝から脳みそ使った。。w
まだ動いてないケドw






こはる (04/28, 14:51)
スナフキン魅惑キャラだよねっ!
どうしてあんなにストイックでいられるんだろう
どうしてあんなに自分を持っていられるんだろう
あのアニメの中から強さを教わった気がするなー




ɛ⊱綺☣‿◡♡羅⊰ɜ (04/28, 13:24)
ずしぃぃぃ~ん・・・・読んでて
ずしぃぃぃ~~~んって考えながら読み返しましたん・・
たくさんの過去を捨てた私にはなんていっていいか・・・
ただただ今を大切にしていくことしか
考えてない綺羅でつ・・・






こはる (04/28, 14:52)
そうだね~^^きらちゃん。今を大切にしていこー
それが過去を含めた自分を大事にすることにも
つながると思うから。後悔や反省は過去から学ぶけど
それが現在に生かせていればいいじゃんっ!






ɛ⊱綺☣‿◡♡羅⊰ɜ (04/28, 14:58)
いぇっさぁ~(。◠‿◠。)ニコニコ




やきにくたろう (04/28, 22:53)
なんでもそうかもしれないけど、
どこで折り合いをつけるか、なんだろうね。
だから、どっちにしたって悩むものなのかも。
悩まない人が羨ましくもあり、
疎ましくもあり、だよ。






こはる (04/28, 22:57)
゚.+:。(*-ω-)(-ω-*)゚.+:。ウンウン
皆人知れず悩んでいるのかな・・
悩んでなさそーなヒトも結構多いけどね
(='m') ウププ




なちお (04/28, 23:52)
ゴメン、途中で読むの断念したw
過去ってさあ・・・
未来の自分を作るためにあるんだと思うよ。
失敗してきたことも、よかったことも。
それぞれが「経験」となって未来に生かされるんだと思う。
わしって、なんか変www






こはる (04/29, 11:08)
クマになってる・・・・www
なちおの今までの積み重ねも決して
無駄じゃなかったよね。未来に向かって
走るのだーー




なおき✥ (04/29, 09:58)
久しぶりに長い日記キタ ━━━ヽ(´益`)ノ ━━━!!
過去を消したいーって思った事は沢山あるけど、その過去があるから今の自分があるし 「これで、いいのだ~!」と思う今日この頃。。。今が楽しいから。。。






こはる (04/29, 11:09)
きゃーーー読んでくれてありがとーー
うんうん^^後悔することもあるけど、
結局これでよかったんだーって最後に思えたらいいんだよね!




どら (04/29, 11:07)
読みふけってしまった。いろんな思いがあってむずかしいなー
確かに少年のころ未来は輝いていたけど、いまは老後を考えるし、(*≧m≦*)ププッ
自分が変われば人も変わるし、過去は解釈を変えることで変わるし。
過去の失敗や成功を見直すことで未来が変わるからなー
すべてつながっているんだよねーー







こはる (04/29, 11:09)
どらの少年時代・・・・どんなだろう( ̄m ̄〃)ぷぷっ!
未来はいつだって輝いていたいね




あきひと (04/29, 14:17)
読みました。難解な日記ですねww、若者に未来があるから希望があると思います。
大人は現実というものがわかり自分の身の丈もわかってしまうし、でもその中でも出来る事をみつけて楽しくいきたいですね






こはる (04/29, 14:35)
うんw大人だからこそ楽しめるって遊びもあるしねっ
(*^m^*) ムフッ






「差別や偏見のない世界。そんなものは想像の産物

でしかない。人間というのは、そういうものとも

付き合っていかなきゃならない生き物なんだ」


兄が強盗殺人を犯して服役している主人公の直貴の

この最後の台詞。あたしはこの小説の意図するところは

直貴にこの台詞を言わせるためにあったんだろうと思う。

主人公の、長い長い葛藤と苦悩に満ちた人生。

罪を犯すということ。罪を償うということ。

加害者と被害者の家族、その逃れられない苦悩。

過ちは悔いても悔いてもどんなに深く謝罪しても

拭えない、消えないってこと。



そして・・・・


赦すということ。








たくさんの手紙を弟に書き綴った兄剛志が、最後に書いた手紙。

それは弟に向けられたものではなかったけれど、

直貴が剛志に最後に送った手紙と、そして兄が書いた最後の手紙。

その中で分かってしまった、決定的にもう取り返す術のない

尊い時間たちが胸を締め付ける切ない作品でした。

愛すべき家族を選び取ることができない、

捨てることしかできない、

そういうことが起こり得るんだってこと。

罪を犯すというのはそういうことなんだってこと。

本当の意味で償うっていうのが、どんなものかってこと。

正々堂々と生きて行きながら、差別を受けることを

受け入れないといけないっていう過酷な現実。

逃げずに正直に生きて行くことが正しいとは限らないってこと。

だけど、忘れられない、忘れてはいけない人たちのこと。





読み終えた時、涙が止まりませんでした。

あたしたちはこの法治国家で生きていて、普段は犯罪などとは

無関係に生活しているけど、犯罪を犯すということが

どれだけ周りの人間を傷付けてしまうものなのかを

改めて思い知らされたような気がします。



映画公開されたら観に行こうと思います。

そして、子どもたちにもこの思いを伝えて行きたいと思います。

田舎の同級生が自殺しました。
もう、1年になりますが、時々まだ心のあわ立ちを
押さえ込むことが出来なくなります。

同級生といっても、全校生徒100名にも満たない小さな
小学校でしたので、クラスメイト全員が幼馴染のような
ものです。
彼はあたしの初恋の相手でした。
小学校4年から中学を卒業するまでの間、ずっと
片思いでした。思いを告げることも無く、ただ遠くから
見つめているだけの淡い恋でした。

先日、帰省した際に、彼の生家にお線香をあげに
行きました。幼かった頃、彼の姿を一目見たくて
訪れていた家に、初めて足を踏み入れました。
娘を連れて行くと、お姉さんが「小さい頃の●●ちゃんに
そっくりや~」と言ってくれました。
彼のお母さんや、お姉さんと、昔話をしているのが
なんだか不思議なことのようでした。
多分、彼の死がなければ一生話すことも無かったでしょう。

高校を卒業して、何度かみんなで遊んだけど、もうずっと
何年も会っていなかった。お互い結婚し、子供を授かり
幸せな人生を送っているものとばかり思ってた。

一緒にお線香を上げにいった友人が、彼の書いた手紙を
持って来ていました。読ませてもらったら、あたしの名前も
そこに書いてあって、高校を卒業して、慣れない地で働き
始めた生活の中で、こうやって同級生と繋がりを持てている
のが嬉しいと書かれていました。

彼の家を後にすると、8月の太陽が容赦なく降り注いでいた。
去年の夏の終わりも、きっとこんな暑い日だっただろう。

彼が首を吊っていたという雑木林をあたしは知らない。
最後の瞬間に一体そこで何を考え、一線を越えてしまったのか
その絶望の深さを想像することさえ出来ません。
木にくくり付けたロープの白い輪っかの先に見えたのは
恐怖だったんだろうか、それとも安らぎだったんだろうか。
親や妻や子を残し、それでも旅立たねばならなかったのだろうか。
発見された時、足と地面の間にはわずか数センチの隙間しか無く
遠目で見たら首を吊ってたようには見えなかったという。
触れられそうで、触れられない、その数センチの空白が
彼を永遠に届かない場所へ連れ去った。

哀しいことがあったら、空に向かって大きなマルを描いてね。
その輪っかの中に哀しみをぜんぶぜんぶ送り込んでやるの。
そうすると、ほら、ちょっとだけ気分が楽になるのよ。

たった一言でいい。その時の彼にそう伝えてあげたかった。
例えそれが無駄なことだと知っていても。
空のきれっぱしを、その瞳の中へ映してあげたかった。


ご冥福をお祈りいたします。


「また課金した」


なんていう話をすると決まって言われる言葉。
「形の無いものにお金を費やすなんてもったいない」



ただ、あたしは実体験から学んだことがあった。
母が死んで、実家の整理をしていたら
出てくるわ出てくるわかつて母の持ち物だった品々。
実家の押入れの7割り程を占めていた品物が
全て母親のものだった。よそ行きなどの服や
着物などの一部を残し全て処分したら、ずいぶん
タンスの中がすっきりしたものだ。
思い出の品や、一部手放せないものもあるだろう。
だけど、着る人がいなくなってしまえば、ほとんどの
衣服はただの廃棄物となるしかない。
なぜなら、所有者以外にその物に対しての思いいれ
など、見出せるはずもないからだ。



そういう経緯があって、
あたしは今回の引越しの際、かなりの物を捨てた。
まだ全然着られる洋服もたくさんあった。
だけど、生活をする上で、人はそれほど多くの物を
必要としない。買うときは一瞬の満足感を覚えたし
その時は欲しかったものだけど、実際には着ない服
なんかもたくさんあった。もったいないと思いながら
捨てれずにいたものを今回思い切って捨てることが
出来たのも、母の死で学んだ事の一つかもしれない。
物を捨ててしまうとすっきりした。家の中が整然と片付くし
欲しいものがすぐ見つかる。埋もれたままで、探すのも
億劫だったものが再び光の元に出てきたという感じ。


そう、どんなに集めていても、形に見えるものは何一つ
あの世には持っていけない。そして、それを失ってしまう
ことなんて、本当に一瞬の出来事なんだ。
死や、あるいは災害によって、
人はあっけなくそれを失ってしまうものだから。



母が生前集めたものは薄情な娘の手によってあっけなく廃棄され
全て残らなかった。だけど、残ったものも確かにある。
それは、あたしや、弟たちや、父の心の中に
いつまでも生き生きと輝き続ける。
母がかつて確かに存在し、あたしたちとかかわり、
そして与えてくれたもの。それはずっとこれからも残るだろう。
あたしたちが存在している限り、ずっと。



実際今は、リアルの服の数倍のお金を課金に使ってるけど
その時の楽しい時間のためにお金を払っていると思えば
もったいないという感じにはなれないかな。
ブランドのバッグが買えるじゃん、と人に言われても
別にそんなもの欲しくもないしねw
いつかは、そういうことにもすっかり飽きて
「やっぱりもったいなかったなぁ」と思うのかもしれない。
でも、その時楽しかったんだから、いいんです、はい。
でもまぁ、はたから見たら、
旦那がパチンコに費やしてるお金を「もったいない」とあたしが
思うようなものなんだろう。彼は彼なりに資金を投入して
ハラハラドキドキする高揚感をお金を出して買っている
んだろう・・・・(と思うことにする。)時々勝ったとしても結局
おいしいもの食べに行ったりして消えてしまうので
残らないものだしね。ある意味似たもの夫婦w





原田宗典の「しょうがない人」という本を今読んでるんだけど
その中に「メロンを買いに」という項目がある。
貧乏学生だった頃、食べたいと思っても手が届かなかった
マスクメロンに対する思いいれのようなものを綴った文章だが
共感できる部分も多かったので「うんうん」と頷きながら
読んでしまった。

メロンを買う、という行為。
実際大人になってみると、それはそれほど難しいことではない。
自由になるお金が1万もあれば十分だ。だけど、メロンを買う
なんて、普段はなかなか実行に移せない。
明らかに他の果物とは一線を画しているマスクメロン。
木箱に納められ、一番高い位置に飾るように置かれている王様。
子供の頃、おねだりしてもなかなか買ってもらえなかったメロン。
だけど、いつしか大人になり、いつの間にか私たちのポケットの中には
すでにメロンが入っていたのに、それに気付かずに日常を過ごしていた。
そう、その気になりさえすれば、それはいつでも取り出すことができるのだ。
あとは右手で取るか左手で取るか、という方法論を考えるだけでいい。
著者は身重の奥さんが呟いた「・・メロンが食べたい」という一言で
メロンを買いに行こうと決心する。まぁ、それがなかなかスムーズに行かない
ところがこの本の面白いところでもあるのだけれどwそこは割愛しておきます。


どうでもいいが、今年の夏はまだスイカを食べてないなーw
今はメロンよりスイカが食べたいですww




追記:
以前、母の死について書いた日記にとても暖かいコメントをいただきました。
どんな言葉でお返ししても、この気持ちを表せそうもありません。
本当にありがとうございました。






なにか、決定的なものが
損なわれてしまった気がする

東北地方代震災の一週間後、
母が死にました
最初のうちはは泣き暮らしたけれど
普通の生活が戻るにつれ
だんだん涙を流す時間も減って行きました。
あれからまだ2ヶ月ですが、この2ヶ月間
本当に長かった
凝縮された時間の中で生きていました。

最近とくに思い出す小説のシーンがあって
(特に母が死ぬ直前に読んでいたからかもしれないけれど)
「ダンス・ダンス・ダンス」(著:村上春樹)
の中で、片腕の詩人「ディック・ノース」が交通事故で
死んだ後、その恋人だった写真家の「アメ」が
一ヵ月経っても茫然自失な状態で暮らしてるとき
主人公との会話中に「こんなはずじゃなかった」と
アメが呟くシーン。

「忘れやすいタイプの女だし、忘れられやすいタイプの男」
だと主人公も思っていた。きっとこの女性は片腕の詩人の
ことなんかすぐに忘れて自分の趣味(写真)のほうに没頭して
しまうだろうと思ってた。だけど、実際はそうじゃなかった。
「死んだ後のほうが存在感がある」と主人公はディックについて語る。
生きているときは、毎日をつましく周りの人の生活をこまごまと
手助けしながらひっそりと生きている人物が、失われたとたんに
残された人たちにその存在の大きさを実感させる。
いつもいると思って当然だった人が、突然居なくなった時の喪失感は
身近にいる人にしか決して理解できないのだろう。
そういう感情は理解できる。精神的な支えも確かに必要だとは思うけど
物質的な手助けや、身の回りの世話をしてくれた人の喪失は
その後の自分の生活に大きく関わってくるものだから、一層なのだと思う。

だけど、実際あたしが感じている喪失感は
ちょっと違うような気がする。母は割りとこまごまと動き回る人だったので
いろんな人の世話を焼いていたから、そういう人たちにとってはまた違った
哀しみがあるのだとは思うけれど。
「だんだん悲しみは減って行った」なんて言うと
薄情な娘だと思われるかもしれない。あたしはアメと一緒で
きっと「忘れやすいタイプの女」なんだと思う。
哀しみも、喜びも、怒りも。ありとあらゆる感情が長続きしない。
実際の生活が多忙だったこともあり、母に手を合わせていない朝が
あることに気付いたりする。だけど、そういう生活とは別に
あたしは自分の中から何か決定的なものが損なわれてしまったと
いう感情が消えない。既に失われてしまったものだから、それが
何だったのか思い出せないような、そんな感じ。

あたしは、あたしを探しています。あれからずっと。
失われてしまった自分自身を。
だけど人は、自分探しのために砂漠には行かないんです。
砂漠に行った人間は、自分を見失いたいから行くんです。
ずっと昔から、きっとそうなんです。
だからあたしはここにいることしかできないんです。
ここで、探しながら、生きて行く事しか。

あたしがかつて確かに感じていた、
怒りや、喜びや、哀しさ、愛さえも
今はあたしの中のどこにも見つかりません。
寂しいと思うことも
夕暮れの空を見て切なくなることも、
きれいな景色を誰かと分かち合いたいと思うことも
道端の草花を写真に撮ることもなくなりました。
記憶力や、日常のちょっとしたこと
(スケジュールの確認や簡単な計算など)
もうまく出来ないことさえあります。
なのに、ある場面では誰も記憶にとどめていないような
事を鮮明に思い出したりします。
思考回路が混乱している気がします。
発作的に身の回りのものを捨てたくなってます。
(実際捨ててます。自分のものだけじゃなく、
母の衣類やバッグも全て捨てました。否、母のものを
捨てたことで自分の物も捨てたくなった気がする。
どんなにたくさんあってもそれを着る人がいなければ
無駄だと知ったし、物に対してどんなに思い入れがあっても
その感情は自分だけのもので、当人が死んでしまえば誰も気付かない。
そしてそれはある日突然やってくるものだから)

こんな状態で誰かの気持ちを慮ったり、思いやったりする
余裕はありません。だから、きっと傷つけてしまっている
人がいると思います。

今、あたしという容器の中はからっぽです。
ふたを開けてみても「なんだ、からっぽか」と幻滅されるのが
怖くて、人と深く関わることができません。
そして、こういう状態がいつまで続くのか想像できません。
あるいはずっとこのままかもしれないし、
あるいは明日にでもすっかり元通りかもしれない。
そういうものは本人を含め、誰にだって分からないし
変えようと思っても変えられるものではないものだと思うのです。
そしてそれは、死んだ人を悲しむ気持ちとは別個のもので
時間が解決してくれるタイプの感情ではないような気がするのです。

「死んだ人はずっと死んだままだから
それについて急いで思い悩んだりする必要は無い」
と村上春樹も言ってます。
 もっと早く倒れているのに気付いてあげればよかった。
 もっと親孝行をしたかった。
 もっと話しておきたかった。話したいことがあった。
 孫の制服姿を見せてあげたかった。
だけどいくら後悔したってもう遅いしどうにもなりません。
そしてそれは時間と共に風化していくタイプの哀しみです。
母の死自体はそうやって乗り越えることが出来るかもしれない。
だけど、今からっぽだと感じている自分を
何で満たせばいいのかという恐れは
乗り越えられるタイプのものかどうか想像もできません。

かつて好きだった恋人を失った時
あたしの中で大事に育てていた一輪の花を失いました。
その時もあらゆる感情が一時的にストップしたけれど
「寂しい、哀しい、誰かに助けて欲しい」
と思う感情までは消えなかった。
だけど、今回は全てが消えました。そしてそれが
母の死によってもたらされたものかどうかも分かりません。
決定的に損なわれたものの正体が何なのかも分かりません。
失ったものが何だかも分からずそのために悔やむくらいならいっそ
損なわれてしまったことさえ気付かなければいいのにと思います。

そうなれば、きっと楽になれると思う
でもそうなるとそれはきっとヒトとしての機能を失った
「何ものか」になるしかないんでしょうね。

それはきっと人が鳥になりたいと願うようなもの。
ふと昔読んだ詩の一部を思い出しました(うろおぼえ)

「鳥は空がどうして青いかを知らない
だから、空は鳥のものなのだ」

翼を持たないあたしたちには
空の青さを説明するだけの知識が与えられた
空を自由に飛ぶ鳥を見て、幸せそうだとヒトは言う
だけど、鳥は幸せなど感じたりしない

幸せはヒトの心の中にある
心の中にしか存在できないのだったら
目に見えるものをかき集めることにどんな意味があるんだろう



ものをすっかり捨ててしまってから思ったこと。
これからは、
 消えてしまうもの
 残らないもの
 かさばらないもの
に、お金を使いたいと思います
 食べるもの
 誰かにあげるもの
 データ系
はいいね。うん。
見えないものでも、心の充実は図れるし
自分がいなくなった後、自分の物を処分する人間の
手間も省けます。
「死んだ後残るのは、集めたものではなく
人に与えたものである」と何かで読んだっけ。
実際溜め込んだものたちは残された人の手によって
全て処分されました。
だけど、決して消えないものもあります。
そう、たしかに。




日にちが経つにつれ、大地震の被害の大きさが
徐々に伝わってくるようになりました。
地震当日は夕方のテレビの情報を見て、被害者60名余り
などと出ていましたので、大きな地震の割には被害が少ない
のかな?と割と楽観的に考えていました。
某サイトにおけるイベントを敢えて強行したのも、
その辺りの楽観視によるものが大きく、今考えれば
数ヶ月延ばしてでも延期したほうが良かったのかもしれません。
それによって、不快感を抱かせてしまった方々には心よりお詫び
いたします。私の軽率な判断でお心を傷つけてしまったこと、
大変申し訳ありませんでした。

普段テレビ等全く見ない私でも、ここ数日間はテレビのニュース
映像などを見て、被害状況などを把握するようにしています。
色んなブログや、ツイッターなどのページも見てみました。
皆一様に自分に出来ることは無いかと考えてます。
救援物資を送りたいのに、行政の許可が出ないからと
受け付けてもらえない。現場はあんなに物資が足りないと言っている
のにもかかわらず・・・そんな怒りの声も聞こえてきます。
「パチンコ屋は営業をやめろ、電気の無駄使いだ」とブログのコメントで
怒ってる人もいました。だけど、パチンコ屋だって従業員を食べさせて
行かなくてはいけないんです。震災被害者の痛みを考えていたって
営業をしないわけには行かないでしょう?企業だって、余分な看板の
電気を消して運営するとか、自社で出来ることはやってます。
誰かを責めたくなる気持ちは分かりますが、回りに不満をぶつけるより
今自分に出来ることを考えて行動して欲しいです。

私が勤めている会社はパチンコ屋ではありませんが、同じ風俗営業法
の管轄下にあるサービス企業です。
社長も、従業員も今自分に何が出来るかを一生懸命に考えて
話し合っています。とりあえず、店内の拾得金数万円といくらかを足して
寄付金とすることを決めました。寄付金も、民間団体ですとどのように
使われているのか分からないという実態もあるそうです。
例えば有名人にしたって、黒●●子さんは自分の取り分は取らず全て
寄付するが、●●ネス・チャンは寄付金のうち25%をマージンとして受け取って
いるという話を聞きました。情報が真実かどうかは分かりませんが、
寄付したお金がちゃんと困っている人たちへ反映されて欲しいと願うのは
誰もが同じ気持ちだと思います。
私は経理事務なので会社の実態も分かってます。もうここ数年ずっと
赤字が続いていて、大変厳しい状態です。そんな企業だって、この事態に
何とか力になりたいと考えてる。

電力の制限にしたって、国民は理解してます。24時間電気も水道もガス
も無く暮らしている人がいるのですから、一日の数時間くらい我慢したっていい。
それなのに経済産業省の会見で「朝の忙しい時間に電気を止められて、
死ねっていうんですか?」と食ってかかっていた記者のモラルの無さに唖然としました。
記者の質問が、そのまま国民の声だとは思って欲しくないと思いました。
今、被災者のために自分に出来ることなど限られています。
だけど、国民の一人一人が今自分に出来ることを考えて行動することが
今は大事な時期だと思います。

自分は安全な場所に居て、溺れかけている人に「がんばれ」と言っている。
偽善?大いに結構じゃないですか。
何もしないで誰かを責めている人よりはずっとマシです。

私が運営するサイト「nico*list」のぷちカンパ収入の全額を
東日本大地震被災者救援金として寄付することにしました。
寄付先団体については現在情報を集めながら検討中です。
決まりましたらサイトにてお知らせいたします。
カンパしてくださった方には何卒ご理解いただけますようお願いいたします。

http://nicotto.cokoa.net/

たまにしか日記を更新しないのに、時々管理画面に上がると
ありがたいコメントをいただいていたりします。
ひっそりとしたブログですが、読んでくださってる方、本当にありがとうございます。
励みになります。

今日は、あるアニメの話をしようと思います。
まだ6話までしか見ていないのですが、友人のhinaちゃんに
「こはるん好きそうだから」と薦められて[蟲師]というアニメを見てます。
全体的に流れる鬱屈さと、五感に訴えかけてくる物語の構成が
なかなか好みで、昨夜は6話まで一息に見てしまいました。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚・・(あれ、五感のもうひとつって何だっけ?w)
まぁとにかく、一つ一つの話は独立しているものだけど、
「蟲」というモノ(妖怪?)に冒された人間を「蟲師」称する「ギンコ」
という名の男が治していくというお話です。

先日、ラジオで漢字の話をしていて、私たちが普段使っている
「虫」という漢字は「竜」が簡略化したもので、本来群れを成して
いる昆虫には「蟲」という字があてはまるという話をしていました。
なぜ「虹」という漢字に虫が使われているかというと、
竜が水を飲むときの首のアーチが虹の姿に似ているからといいます。
白川静、という漢字研究家は「漢字というものは象形文字であるが、
本来は悪霊などから身を守るための呪いの儀式で使うために発展した」
という斬新な説をとなえています。漢字の歴史は古く、古いがゆえに
これという確固とした説明が無く、そこには人の想像力がどれだけも
盛り込める分野なのだと思わせてくれました。
1900年前、許慎(キョシン)という人が漢字についての説明書を書いてます。
説文解字(読み:セツモンカイジ)」というそうです。日本で言うと縄文時代の頃の書物です。
それだけとってみても中国の歴史がいかに古いものかがよくわかります。

とにかく、キョシンさんはその「説文解字」という説明書で
「名」という漢字をこう説明しました。
「夕方になると暗くなるので、人が口に出して呼びかけたもの。
それが”名”である」と。白川さんは考古学の分野から、それに
真っ向から反論しています。「名」に使われている「口」というものは、
本当は人間の口を表しているものではないんだと、それは神様の言葉を
入れる「箱」を表しているんだと。そうじゃないとなぜ「右」や「器」に「口」が
使われているんだ、全然人間の口とは関係がないじゃないか、と。

「蟲」という漢字に「皿」を足した「蠱」という漢字がある。”コ”と読みますが
それは5月5日に100匹の毒虫を一つの壷に入れて、何日も置いておくと
最後に一匹だけが生き残る。99匹の毒虫を食い殺した最強の毒虫
のことを「蠱」と言うそうです。「ビコ」という呪いの技だそうですが、憎い人の
家の庭に蠱を埋めると地中を這い回り、相手を殺してくれるそうです。
漢字白川説をラジオではもっとおもしろく取り上げていましたが、
今日は「蟲師」について書いているので、このへんでw

「蟲師」に出てくる蟲は、人間に憑り付いて色んな悪さをします。
まぶたの裏に取り付いた蟲は人から光を奪い、耳に取り付いた蟲は
人から音を奪います。鼻腔に取り付いた蟲は1日しか生きられず、
毎日卵を産み落としながら寄生し続けます。

「阿」という蟲は耳に寄生するものですがただ人から音を奪うだけ
ではなく、常に音の洪水を宿主に浴びせ続けます。耳を塞いでも
内側から聞こえてくる音は消えません。それが永遠に続き、人を
衰弱死に追い込む。「阿」に冒された少年の母親も同じ蟲によって
死に追いやられました。雪深い山奥の小さな山村で、しんしんと
降り積もる雪の中にいるととても静かだけど、決して無音ではない。
雪は全ての音を吸収するようにただ静かに降り積もっていきます。
実際は私たちは日常の様々な音に囲まれて生活している。
無意識的にそれをシャットダウンしてはいるけど、その雑多な音は
無くなることはありません。映像を見ながら、こんな場所で雪の
降り積もる音を聴いてみたいと思ったりしました。

次は特殊な花を嗅いだ時に鼻腔に取り付く蟲の話。
花は毎日咲き、そして毎日枯れ落ちます。
その花を嗅いだ人間は「生き神」と呼ばれ、人間の言葉を理解できず、
話すこともできず、夜になると老いて死に、朝になると元の姿に戻ります。
自分の一生が1日だと知っていたら、私たちはその一日で何を考え
行動できるんだろう。と言ったようなことをこの物語では問いかけています。
生まれ落ちた時、まだ世の中の仕組みも言語も知らず
だけど生きているという喜びと希望に満ち溢れている。
寄生された人間は蟲の一生を一緒に生きています。
だから、朝生まれ変わり、夜になって死んでいく。
ただ、その短い一生を生きるだけで精一杯で、何かを考えている
余裕などありません。蟲に冒された人間は、一見周囲の目からは
奇異に映りますが、それが本人にとって不幸なことかどうかなんて
分かるはずもない。

以前「象の一生、蟻の一生」みたいなタイトルの本が有名になりました。
象も蟻も、その一生の長さは違うけれど、一生のうちに打つ脈の数は
同じだという。生物にとって、時間というものは感じ方の違いであって
本当は同じ時間で構成されているのではないか。大人より体温も高く
脈も速い子供の頃の1日はなんと長く感じられただろう。
蟲師の治療によって、普通の人としての生活を取り戻した少女は
その目の前に広がる気が遠くなるような時間に恐怖を訴えます。
自分のこれからの人生に対しての膨大な時間に耐え切れなくなった少女は
自ら花の花弁を嗅ぎ、再び「生き神」となってしまう。

たとえ人として生きれなくても、毎朝新しい自分へ生まれ変われる
その喜びと実感は確かに生きている証であり、何事にも変えられないもの
だったのでしょう。

「蟲師」
もちろん荒唐無稽な作り話の世界ですが、学生時代に夢中になって
読んだ「吸血鬼ハンターD」などのファンタジー小説のドキドキ感を
思い出させてくれるようなアニメでした。
今日も続き見てみようっかな。

趣味の世界には極めた人だけが到達する面白さというものがあると思う。
小さい頃から趣味の欄には何気なく「読書」と書き続けてきた。
小学校の時はよく本を読んだという理由で校長先生から図書券をもらった。
あたしの趣味がたまたま読書であったから、今回は読書のことを書こうと思うが
恐らく趣味と呼ばれるものの多くに共通していること。
極めることでその面白さが何倍にも膨らむということ。
好きになるということ。それはすなわち恋と同じで、その人のこと、その人の
好きなものを知りたいという気持ちになるということ。

あたしが好きな村上春樹の小説に関しては、恐らくもうある程度の「極み」
に達したと思う。特に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は
1年に1度は必ず読み返す長編小説です。同じくらい読み返す小説に
同じく村上作品の「ノルウエイの森」がある。これはベストセラーにもなり、
今秋映画公開にもなるそうだ。頑なに映像化を拒み続けてきた村上に
一体何が起こったのかファンなら皆がそう思ったに違いない。

今回「ノルウエイの森」のことを書こうと思ったのは、私が好きなラジオ番組
でもある武田鉄矢の「今朝の三枚おろし」という短いトーク番組がきっかけ
だった。武田鉄矢と村上春樹には何の接点もない。以前そのラジオ放送内で
村上春樹の小説について武田鉄矢が語った場面もあったが、少なくとも
武田さんにとって村上春樹の小説から何かを引き出すことは出来なかった
らしい。「今朝の三枚おろし」はネットで一週間分をまとめて聞けるので
もし興味がある方は聞いてみてください。

http://www.joqr.co.jp/bbqr/index.php

ここは毎週月曜日に更新される。朝5分という短い番組を一週間分まとめて
約30分ほどのファイルにして公開している。私も毎朝聞けるわけではないので
こちらのサイトでまとめて聞くことになる。昨日は月曜日だったので、早速聞いて
みた。武田鉄矢少年(18歳)が初めて「竜馬がゆく」を読んだ時のことが
切々と語られていた。

 『竜馬がゆく』(りょうまがゆく)は、司馬遼太郎の長編作品。
 「産経新聞」夕刊に1962年6月21日から1966年5月19日まで連載し、
 1963年から1966年にかけ、文藝春秋全5巻で刊行された。
 1974年に文春文庫発足に伴い全8巻で刊行、
 単行・文庫本ともに改版されている。(Wikipediaより)

あたしが武田鉄矢が好きなのは、趣味が同じだからというわけではない。
性別も育った環境も違うので、趣向は全く違うし、好きな本、
感動した作品ももちろん違う。番組内で紹介された映画や本も
いくつか読んだり観たりした(「悪の遺伝子」「ベン・ハー」など)だが、
残念なことにそれらの作品があたしの琴線を”強く”震わせることはなかった。
だけど武田さんとあたしには明らかに共通点がある。
好きな人、作品などに対する想いの純粋さとか、感動する心の震えようの
ありようとか、そういったものが確かに似ている。ある友人に言わせると
「武田鉄矢なんてただの威張ったオッサンじゃないか」と一笑されて終わったが
「今朝の三枚おろし」を聞いているとあたしは武田さんの思いのこもった
ものたちが、まるであたしが愛でているもののようにいとおしく思えてくるのだ。

今年は大河ドラマにも竜馬がとりあげられたりして、竜馬好きな武田さん
にとっては特別な想いもあるのかもしれない。武田さんの話を聞いていると
竜馬が本当に好きなんだな、ということがよく分かる。
私は「竜馬がゆく」を読んだことがないので、これから書くことは全て
武田哲也が番組トークで語った内容ですが、気になった部分を抜粋して
書きたいと思う。

「竜馬がゆく」はフィクションです。多少の脚色も状況の変更設定もある
作品を武田さんはきっと何度も読んである程度の「極み」に達していた
のだろうと思う。その後、色んな文献などから竜馬の事を調べたりする
うちに、そのフィクションである小説がまるっきりデタラメから来ているわけでは
無いということにふと武田さんは気付いた。
「竜馬がゆく」の中で、竜馬が鶏肉が好きだという話が出てくる。
それが本当かどうかなんて当時の竜馬を知らない限りは分からない話だ。
だけど、その何気ない設定さえ、実際に後世に残された竜馬の文献の
一文から発せられたものだったんだという事を知ったときの感動。
それは極めたものしか分からない、分かり得ない内容だったはずで、
ただ「竜馬をゆく」を読んだだけでは到底知り得ることが出来なかった。


極めた者だけが得ることのできる感動。
それはその作品を飛び出した部分から、その作品に込められた
思いを知ることによってもたらされる。そしてふと気付いた。
あたしにもかつて、確かにそういう経験があったということ。
それは村上春樹「ノルウエイの森」によってもたされたものだった。

「ノルウエイの森」の中で、主人公の青年「ワタナベ」が
本屋の娘「ミドリ」の家でひょんなことから一夜を明かす場面がある。
青年はうまく眠ることが出来ず、1階の本屋から一冊の本を持ち出し、
寝息を立てるミドリの横でその本を読む。
明け方になり、その一冊分の料金をレジに置き、青年はそっと本屋を
あとにする。朝もや、冷たい空気、しんとした商店街のまだ何者にも
犯されていない生まれたての朝。あたしはこのシーンが好きで、
(特にミドリと火事見物をしながらギターを弾く場面は最も好きだが)
何度も何度も読んでその状況を目に浮かばせることさえできる。

 しかし話題はそれるが
 映像化されていない小説の文章から映像を思い起こさせるのって
 すごいですね。本当に映画化されてしまったら、それは映像化された
 イメージに固定されてしまうんだろうか、という思いがあって映画を
 観るのが少し怖くもあるのですが・・・・
(でもきっと真っ先に観てしまうんだろうけどw)

さてさて脱線を修正、話を戻します。
ミドリの家で読んだ本が「車輪の下」というヘッセの小説でした。
主人公の青年はこの本について「以前読んだことのある古臭いが悪くない」
小説だという風に述べています。今回こういう状況にならなければ、
昔読んだ「車輪の下」を読み返してみようなどという気にはなれなかったかも
しれない、と書かれています。

「ノルウエイの森」では他にもこういうシーンが出てきます。
(思い出しながら書いているので状況の前後、脚色、
 語彙の置き換えはあると思いますがご容赦ください)

ミドリが主人公の青年「ワタナベ」に問いかけます。
「連立方程式を覚えて、一体何の役に立つの?」

青年はミドリにこんな風に答えます。
「連立方程式が、直接君に何かをもたらすということはないと思う。
だけど、物事を理論立てて考えるための訓練になるのだと思う」

そしてミドリはこんな風に言います。
「ワタナベくんが、あたしの先生だったら、あたしもっと勉強したのに。
威張った大人や学校の先生が大嫌いだった。教師はこの問題を
やれと命令するだけで、その意味については何も教えてくれなかった。
連立方程式が一体あたしの人生のどんな役に立つのか質問しても
オマエは馬鹿かという風に見られるだけだった」

やがてミドリはそんなワタナベに惹かれていくことになるのだが、
そこは割愛させていただくこととして、あたしはこの「ノルウエイの森」を
読んで、ヘッセの「車輪の下」を買って読んでみました。ヘッセだけじゃなく
村上の小説に出てきた小説や音楽はできるだけ見たり聞いたりする
ようにしてきた。それはあたしの趣向とは違ったものも多かったが、
あたしが「恋をした」作品に書かれているものなのだ。見ないわけには
いかなかった。「車輪の下」には「デミアン」という小説が同じ一冊に
おさめられていた。そして「デミアン」の中の一場面で前述のワタナベと
ミドリが繰り広げていた会話そのものの場面が出てくることを後から知る。

そしてそれを知ったとき、武田鉄矢が「竜馬がゆく」で感じた同じ感動を
あたしは体感することになる。あぁ、、そうだったのか、という気持ち。
それはただ「ノルウエイの森」を読んだだけでは到底知り得なかった。

主人公の青年はこの「デミアン」を過去に読んでいたのだ。
(小説には確かに昔「車輪の下」を読んだという風に書かれている)
そしてミドリから質問されたとき、ふとこの小説のことを思い出して
それを引用して答えたのだ。

まるで恰も自分が思いついたことのように。

あたしがもし、「車輪の下」を買わずに、「デミアン」という小説を
読んでいなかったら、このワタナベという青年はただ頭の回転の速い
気の利いた言葉を言える頼もしい人物だと単純に思っただろう。
だけど、彼は「ミドリ」という少し気になる魅力的な女の子の前で、
持前のささやかな知識から過去に得た言葉を引用し、
それを自分の言葉として伝えることによって、彼女の信頼、更には
好意的な印象を付けることに成功している。

なんて人間くさくてかわいいんだろう。人だって所詮動物なんだから、
どんなにクールに見せようとしたって生物本来の欲求には抗うことができない。
男はやっぱりかわいい女の子に頼もしいと思われたいのだ。

村上春樹が、果たしてそういう意図があってその引用を
主人公「ワタナベ」に言わせたのかどうかは分からない。
だけど、あたしはそれに気付いた時から、この「ワタナベ」という
主人公の人間くささに親近感を覚えた。
「なんだ、ワタナベ君、かわいいとこあるじゃん」って風に。


極めてこそ気付ける奇跡、感動がある。
それはきっと他人にとってはどうでもいいことかもしれない。
だけど、武田鉄矢少年が18の夏に「竜馬をゆく」を読んで得た感動が
長い長い年月を経てもなお彼の中に息づいているように、
あたしの中にも村上春樹の文章は確かに息づいている。
そこに馳せる想いの塊のようなものはとても似ていると思う。

「その日は、朝早いうちから雨が降りはじめた」
この一文に共感できる人とできない人がいる、と何かの本で
村上が語っていた。武田鉄矢少年も思った。竜馬が富士山を見て
ただその雄大な姿にわけもなく感動したように、自分もいつか
富士を見た時は同じように感動できる人でありたいと。
そしてあたしも、ずっと同じように思ってる。
何気ない言葉に感動できる心を持ち続けていたいし、
それはどんなに年を重ねても決して失いたくない。
小手先だけの言葉でどんなきれいごとを並べても
人の心は動かせない。「言葉」は「使う」と表現するように
武器でもあり、道具でもあります。だから、決して簡単に
使ってはいけないと思う。竜馬が、そして武田さんが心がけて
きた「言葉を置きにゆく」という行動は、あたしもずっと
心がけていきたいと思う。

読書は読んでそれで終わりではない。読んだ時は理解できなかった
ことが、ずっと後になって気付けるようになるから面白いのだ。
でも、それに気付けるのは、心の中にずっと温めていたからこそだと思う。

自我の核というものはなんだろう。
それは形に出来るものなのだろうか。
それとも混沌として混濁した捉えようもない
意識の塊のようなものなんだろうか。


村上春樹「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」
もう数え切れないほど読んだこの一冊を今日読み終えました。
今年に入ってから村上作品を読むのは
「海辺のカフカ」「ノルウェイの森」「ダンスダンスダンス」に続き
4作品目です。村上春樹の長編小説の中でもこの
「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」はあたしの中で
ずっと1位をキープしている小説。
小説の中では「2つの物語」が交互に展開していきます。
小説のタイトルどおりなのですが・・

「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」

村上小説の特徴は物語が一人称で語られて行くところにあります。
「世界の終わり」では「僕」
「ハードボイルドワンダーランド」では「私」
「世界の終わり」が「静」ならば「ハードボイルドワンダーランド」は「動」とも
言える、この全く違う世界で主人公たちは物語を展開して行きます。
下巻のはじめくらいまで読むと、この二つの物語の関連性が分かって
来るんだけど、最初は一体なんだろうと謎を残したまま読むことになる。
最初は話が交互に語られるため戸惑うのですが、
流れに乗れると読み進むのは早いです。

個人的に言えば、あたしは「世界の終わり」という物語が好きです。
極寒の地で、慎ましく静かに暮らす人々。愛や憎しみや哀しみを
自ら放棄して平穏な暮らしを選んだ人々と、その代償として死んで
行く一角獣。そして永遠に続く時間、不死。
不死とはどのようにしてもたらされるものなのか。
本編ではそれについてこんな風に記述している。

人間は時間を拡大して不死に至るのではなく、時間を分解して
不死に至るのである、と。

いつか、何かの本で読んだことがありますが、人の脳というものは
実際に行動して体験した経験も、夢の中で見た場面や経験も、
同じように処理をしていくと言う。だから、夢の中の出来事だって
実際に自分の身に起こったことと考えても不思議ではない。
私たちは現在生きているこの限られた時間が支配する場所に
いる限り、永遠の生を得ることは出来ない。だけど
意識の中では不死というものが存在する。
肉体を持たないのだから、永遠に夢の中にいられるのならば
人はそこで永遠という時間を生きることもできる。

朝、あたしたちは目が覚めます。そこではじめて
「ああ、夢だったんだ」と思う。現実と夢の世界。
そこに違いを見出そうとしても、概ねあたしたちはうまく区別できません。
目が覚めるから「夢」が存在する。でももし覚めなかったら・・・?
「夢」はずっと「現実」のままなんです。

この本はハードボイルド系要素も結構楽しめます。あたしは
冒険物などは読まない方だけど、こういう設定は悪くない。
機密情報を守ろうとする者とそれを奪おうとする組織。
主人公の「私」ががその陰謀に巻き込まれていくわけだけど、
そこには私たちが普段日常で感じている概念では
ちょっと考えられないようなエピソードが出てきたりする。
人が闇の中に見る得体の知れない恐ろしいものの形を
一つの象徴的なものとしてうまく表現していると思う。
Tカポーティ「夜の樹」のように”とらえどころのない闇”
というものはあたしたちの周りにあるのではなく、恐らく
自分自身の中にあるものが具象化したものなのだろうと思う。
それがどんなに混沌として醜いものでも、ほんとうは
目をそむけてはならないのだ。それは確かに自分自身の一部で
あることは間違いないのだから。



今は村上春樹「ダンスダンスダンス」を読んでます。
多分もう7~8回は読んだかなw
もうすぐ下巻終わりそうです。
村上さんの文章は簡潔で分かりやすくて好きです。
簡単なだけじゃなくて、なんだか不思議な世界観が
感じられるところがすきです。
以前どこかで言ってたような気がするのですが(小説内かな?)

すぐれた文章というものは縁側でひなたぼっこしながら
おばあちゃんに読んで聞かせて理解してもらえるようなもの

という記述がありました。読書をしていると、とても難解な文章に
出会うことがあります。いかにも自分の語彙の多さを誇示している
ような、だけど、読んでも全然頭に入ってこない。やたらと外来語が多い。
結局何が言いたいのかさっぱりわからない。
そんな文章は読者の立場で書かれたものだとは思いません。

本の中でこういう場面がありました。
友達に、ちょっと深刻な打ち明け話をされます。
お互いに大人です。自分の人生に責任を持って行動してます。
聞かされたところで、何を言ってあげればいいのか分かりません。
言う方もただ聞いてもらいたかっただけなんだと思う。
結婚がうまくいかなかったとか、仕事が思うように出来ないとか
大人になれば色んな障壁がふいにやってくることがある。
主人公は、おそらくそういう話を誰にもせずに解決してしまう人です。
あたしもそうだから、よくわかる。

ネットしていても、友人内でそういう話を聞く事もある。
でも、自分で選択して来た道です。そうなんだ、、と相鎚は打つけど
だからってあたしが何かをしてあげれるわけじゃない。
そんなときは、そういうものごと全てに無力感や喪失感を感じてしまう。
人によって感じ方は違うかもしれない。だけど、あたしはダメです。
やっぱり相手の立場に立って考えてしまうから、自分まできつくなる。
それが嫌だから、あまり深くならないようにしているのかもしれない。
そんなことまで話してくれて、あたしのこと信用してくれてるのね、なんて
安易に考えられないのです。

本の中の主人公も「彼はそういう話をするべきじゃないんだ」と
言ってます。そういう心の趣き具合がとても共感できました。
一見冷たいように思われそうですが・・・

心の弱い部分をさらけ出すのは誰を相手にでもできることじゃない。
吐き出せば楽になるんだ。
そういうことを十分理解してもなお、そう、それでもなお・・
大人だから、口に出してはいけないこともある。


あたしもそう思いました。


今読んでいる本の中でこういう記述があった。
思い出しながら書いてるので、セリフなどは適当ですが。
男性同士の会話の中で共通の知り合いだった女性について語ってる場面。

「僕は彼女と二人きりになるのが怖かった。
二人きりで逢っていてもよかったのだけれど、、なんでだろう?
僕はそうしなかった。
彼女と一緒にいるのはとても素敵なことだったけど、
彼女の側にいたら僕はもっと深い所へ行ってしまいそうな気がした。
そんな風に自分が損なわれてしまうのは、僕が求めている事じゃなかった」

先日観た映画「マンマミーア」でも男が恋人にこんなセリフを言うシーンがある。
「僕は今まで自分がこんなに嫉妬深い男だとは思ってなかった。
君と逢って全てが変わった。君の周りにいる男全てが恐怖に思える」

人を好きになるとね、なんだろう。全く違う自分が見えてくる反面、
今までとは違う情報を上書きされるのを恐れ無意識にその状態から逃げて
しまうという作用が働く。逃げたくなる気持ちはよく分かる。
その力は絶大で、ある意味逃れられないというのが本能的に分かるからだ。
それは、自分が少しづつ積み上げきたもの、かたち作ってきたものが
根底から覆されるような大きな力だ。

そして

殆どの人間が流される。
自らその湖に身を投げる。
飛び込んでしまって、落ちながら、その意味について考える。
それは誰もが、程度の差こそあれ、変化を望んでいるからだ。
深淵に立ち、眺めているだけじゃ飽き足らず、
その湖の深さを確かめてみたいと思う。
そこに潜むものを恐れる反面、その姿を見てみたいと思う。
飛び込む時は深い事は考えず、本能のまま飛び込むから
その後理性で考え始めるとそこに歪みが生じる。

最初はそれなりに楽しいだろう。色鮮やかな魚は泳いでいるし
見上げた湖面はきらきらと光を反射して輝いている。
でもそのうち光が届かない暗い場所へたどり着く。
そこには誰もいない。音も、光も無い。暗くて、冷たくて、寂しい。
時々泥の中からごそっと何か得たいの知れないものが動くだけだ。
だからうまくいかない。そしてやがて終わる。

そう、それでも誰もが飛び込んでしまうのだ。必ず一度は。
そしてまた、何度も同じ事を繰り返す。
だけど流されない人間もいる。
一度、深い深淵の底から命がけで這い上がってきたものは、
もう二度と飛び込まない。


どっちが幸せなのだろうか

と思う



まだわからない


不安の原因がわからないまま

もやもやした気持ちを抱えてた



大好きな人に

好きだと伝えることが

いつからこんなに難しくなったんだろう

つないだ手のぬくもり一つで伝わるのに

どうしてこんなに遠いんだろう



期待すればするほど

絶望は深く、重く沈んでいく

だからあのとき捨てたはずだった

あたしがどこか冷めて見えるのも

きっとそのせいかもしれない



永遠に手に入らなくても、もういいと思った

あんなに苦しい思いをするくらいなら


だけどそれは忘れた頃に、ふっと頭をのぞかせる




あのとき

泣きだしそうな気持ちをこらえて

ぐっと飲み込んだ塊は

もうあたしの中から消えることはない




みんな自分なりの淀みを抱えてて

それをなだめながら必死に生きてると

そんなことはじゅうぶんすぎるほど分かっているから

そんな当たり前の言葉などいらないから

本当にあたしが欲しい答えは



その淀みを抱えながらどうやって

この先、生きていけばいいのか?

ということ




「誰か」のことじゃなく、「あなた」が

どのようにしてその淀みと戦っているか?

ということ




耳障りのいい言葉なんていらない

おしつけがましい正論も

誰かに借りた言葉や空論も

そんなもの全部全部いらない




今度こそ手に入れたと思っても

時々見失いそうになる

本当は最初の最初から

そんなもの、存在しなかったのかもしれない




あたしがずっとずっと捨てたかったもの

持っているだけで辛くて切ないのに

どうしても手放せなかったもの





それが今日の日記のタイトル





------------------------------


ひろ✰彡 (03/31, 21:53)
大事だったからこそ捨てれないんだろうな
捨てたかったんじゃなくて 捨てれないほどの宝物なんだ きっと







こはる。 (04/01, 01:02)
ぅん(〃∇〃)  




ぇる。 (03/31, 23:39)
文章の途中のやつ「先生」と読んだ






こはる。 (04/01, 01:01)
先生にみえるねwww
なおしとこw




☩狂歌☩ (04/01, 04:20)
むずかしぃね・・ねーさん






こはる。 (04/02, 00:03)
本人は意外と単純(*ェ`*)  




ღ♬はな㌧♫ღ (04/01, 15:29)
どうしても食べたくて、我慢できずに食べた。
お腹が痛くなった。。。
刺激物は不可だったらしいw
見てるだけにすれば、よかったミ〓■● パタッ






こはる。 (04/02, 00:03)
ぷwwww
あたしも食べちゃぅwww




๑⁰ε⁰月 (04/04, 01:17)
よ 淀み…(゚o゚;

この淀みは 淀んだままでいいんだって
誰かにいって貰えて楽になったけど、

その淀みを、融かす努力をしてはどうかと
誰かに言われて拒んだけど、

ホントはどうしたいんだろ。自分。

でもやっぱり、淀んだままが苦しいのだとしても、
それを融かして許すくらいなら、
心の底に抱えたままでいいやって
そう思ってしまうなぁ…

Σ(゚o゚; イミフでゴメン^^;






こはる。 (04/22, 08:30)
ヨシヨシ(。・ω・)ノ(ノω`。)
なんかね・・自分の気持ちさえ定まらなくて
ぐちゃぐちゃなときはあるね・・
今はその時期かなぁ・・・
しばらく放置は続きそうです・・
月ちゃんもがんばるのだー




ちーたん♡ (04/04, 10:13)
私も今、淀みの中だなぁ
きっといつまでもスッキリはしない







こはる。 (04/22, 08:31)
そかぁ・・・
慰めにはならないけど、やっぱり同じような
想いをしてる人がどこかにいるっていうのは
少し心強いかな・・
ちーたんもがんばだよ!




⊹⊱✞㊑寿✞⊰⊹ (05/30, 17:26)
ぃぃ~~~~っつも期待して、期待しては覆されて…。

でも、また期待する。

人の心から期待する気持ちはなくならないねぇ。
...❍ˇ_ˇ❍ㆀ...









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